ギルベルトに抱き上げられたままのには、全くと言って良いほど逃げる余地はなかった。

 アーサーを半ば無理矢理ひきずって、別室まで案内したギルベルトはそこに入ってやっとをソフ
ァにおろす。を落とさないようにと慎重な動きをしてくれてはいたが、はおろされた途端にア
ーサーの視線と答えが怖くてギルベルトにしがみついた。





「おい、、」





 ギルベルトが諫めるように名前を呼んだがそんなの関係なく、はぎゅっと彼の服を握っていた。

 アーサーはギルベルトの隣でがたがた震えるをぼんやりと見ながら昔を思いだしていた。彼女に
初めてあったときも、こんなふうに兄である菊にしがみついていた。いつも彼女は人にしがみついてい
て、怖がっていた。不安がっていた。


 菊に対しても、たまに不快に思うことはあったけれど、ギルベルトに対してあれほど苛々したのは、
多分、ギルベルトは自分と同じだと思っていたからだ。同じ白人で、同じ欧米人で、一緒にずっといた
わけではない。なのに、はアーサーを信頼はしてくれず、ギルベルトばかりに頼る。自分にも頼っ
てくれても良いのに。どうして、




『だって、ギルベルトさんだったら、少しは仲良くできたかも知れないのに』





 あのの言葉は、胸を突き刺すような衝撃だった。

 仲良くしたかった。なのに不器用でやり方が分からなくて、遊びほうけて距離を作って。そうやって
、いつしかとの距離を深めてしまったのだ。

 そんなことわかっていたけれど、上手く言葉に表現することは出来なかった。





は、おまえが疎ましく思うなら、別に屋敷を頼むそうだ。」





 ギルベルトは宥めるようにの頭を撫でながら言う。アーサーは目を見張った。





「そんな、」

「考えられない事じゃねぇだろ?別に国が国と住まなくちゃならねぇってルールはねぇ。」





 ギルベルトの答えは明確だったし、正論でもあった。

 その通りで、国が国同士住まなくちゃいけないなんてルールはない。例え預かったとしてもだ。だか
が望めば、おそらく別の屋敷を与えられる。それは非常に簡単なことだ。

 しかしがそんなことを考えつくはずもないから、おそらくギルベルトのいれ知恵だろう。アーサ
ーは思わず相手の疎ましさに舌打ちをする。ギルベルトは元プロイセン、オーストリアを押しのけてド
イツを統一に導いた国だ。単純馬鹿ではない。駆け引きにも通じているし、頭も良かった。アーサーで
あっても、今回はこちらに否があるだけに分が悪すぎる。





「おまえが、疎ましく思うなら、だがな、」





 ギルベルトはもう一度同じ言葉を付け足す。





「それは・・・、」





 珍しく優しい彼の言葉に、わざと残された議論の余地をアーサーは信じられない思いで見つめた。





「そうだ。疎ましく思うならだ、」





 はっきりとギルベルトは返した。アーサーが疎ましく思うならば、屋敷を変えると言う。反面アーサーが疎ましく
思っていなかった時のことは言及されていない。ギルベルトの罠かと警戒したが、を 見るギルベルトの目は、
酷く優しかった。

 アーサーはぐっと奥歯をかみしめる。ギルベルトはその姿を横目で確認していたのか、腕を掴む
の手をそっと剥がし、の前に膝をついた。





「俺がいると、イギリスも話辛いからな。少し席を外す。良いな?」





 ギルベルトがに確認するように言う。は返事をしない。





「そう怖がらなくてもとって食われそうになったら、叫べば良い。な?」





 とって食やしねぇよ、とアーサーは思ったが黙っておく。は胸元で手を握りしめて、ギルベルト
をその漆黒の瞳でじっと見上げていたが、何も言葉を発することはなかった。





「Ja? Nein?」





 はい、か、いいえ、か。と。ギルベルトはおもしろがるようににドイツ語で尋ねる。





「・・・・Ja,」





 しばしの空白の後、は本当に聞こえそうにない程小さくyesを答えた。

 それを確認してから、ギルベルトはを労るように頬を柔らかに撫でてから立ち上がる。ドアがバタ
ンと閉まると、部屋には重苦しい沈黙が下りた。ソファーに座るは俯いたまま顔すら上げない。





「・・・・・・ごめん、悪かった。」





 アーサーは空気の重さに耐えかねて、謝る。するとはびくりと肩を震わせたが、ふるふると首を
振った。





「べ、べつに、わかっています、から。」





 漆黒の瞳がゆらゆらと潤んで揺れる。





「わかって、ます。」





 邪魔なのも、疎ましいのも、押しつけられた存在なのも。分かっているとは言う。それは、アー
サーが心ないことを言う前から、その可能性を視野に入れていたような言い方だった。





「ち、ちがうんだ。別に、俺は、」





 は押しつけられたのではない。上司はアーサーに住まわせてみるかと尋ねただけで、頷いたのは自分だ。
に興味があったからそうした。無理矢理押しつけられたなんて、そんなことはない。





「そ、そんな、いいです。だから、」





 ぽたりと涙が目尻からこぼれ落ちる。白い頬を伝うその滴は、の不安の深さを物語る。





「違うんだ、」





 アーサーはギルベルトがしたように、の前に目線を合わせるように膝をついて、目じりの涙をぬ
ぐってやる。するとは漆黒の瞳を丸くして、はあわてて自分の涙をぬぐって顔を赤くした。恥
ずかしいと、思っているのだろうか。別に泣いてくれたって怒ったりしないのに。





「・・・上司は別に俺におまえを押し付けたんじゃなくて、俺が良いって言ったんだ。だから、さっき
のは、俺の売り言葉に買い言葉で、別におまえが悪いとかそんなんじゃねぇよ。」





 アーサーが言うと、は小首をかしげた。しかしすぐにまた目を伏せてしまう。





「で、も、そうだったと、しても、わたしのこと、嫌い、でしょう?」

「なんでそう思うんだよ。」





 むっとして不機嫌丸出しでたずねると、はあわてたような表情でびくりと肩を震わせた。





「だ、だって、わた、しが、あんなこと、言ったから、」



 ――――ギルベルトさんだったら、少しは仲良くできたかも知れないのに





 がギルベルトに漏らした言葉は、アーサーとの関係を完璧に物語っていたし、の本心だ
っただろう。確かにあの一言がアーサーに与えた衝撃はすさまじかったが、それも彼女の立場を考えれ
ば仕方がない。

 アーサーだって一人でアジアに放り出されれば不安にも思っただろう。は子供で、物も知らず、
それはなおのことだ。知り合いすらおらず、そんな場所で彼女を慮ってやることもせず、アーサーはき
まづいからとかまってやることもせず、放置していたのだ。女を屋敷に連れ帰って遊んでいたことだっ
て、知らないわけではないだろう。そのくせ彼女に時間を割いてやることはほとんどしなかった。信用
をなくしても当然のことだし、気づいてやれなかったアーサーの方が明らかに思慮に欠ける。





「そりゃ信頼できなくても仕方ねぇよ。俺も悪かった。連日遊びほうけてたし、時間を作ってやろうと
かも思わなかったしな。そりゃ書斎くらいしかいくとこねぇし、俺を信用できなくて当然だ。」





 アーサーはちっとも帰ってこないし初めての国でひょこひょこ遊ぶ場所も思いつかないだろう。使用
人を使うことにも慣れていないのだから遠慮もある。書斎は最初にアーサーが自由に入って良いといっ
た場所で、彼女の居場所はそれくらいしかなかったのだ。





「いえ、その、でもそれも、文化、なんじゃ、」

「おまえは文化を認めすぎだろ。それなら、イギリスでははっきり言うことが文化なんだよ。だから、
おまえもしてほしいことを少しは言え。」





 うじうじというにアーサーははっきりと返す。はどういったらいいのか、言葉を選ぶそぶり
を見せたが、結局口を閉じてしまう。





、」





 いさめるように名前を呼べば、はやっと本当に恥ずかしそうに口を開いた。





「すこ、し、少しだけ、わたし、のために、一緒にいる時間、を作ってほしいです、」

「はいよ。わかった。」






 アーサーは笑って、の頭をなでる。ソファーに座るの隣に座って、アーサーはそっと
肩に手を置いて、そのまま抱き寄せる。とたん、腕の中にある体が硬直したのがわかった。






「俺からもお願い、」

「ぇ、?」

「これからは困ったこととかあったら、一番に俺に言えよ。一緒に住んでんのに、何が悲しくて誰かを
介さなきゃならねぇんだ。」





 問題があるごとにアーサーは直接に言うのに、がアーサーに言うのには菊やらギルベルトを
解していたのでは、面倒にもほどがあるし、大事にもなる。当事者間の解決は必要だし、アーサーだっ
て、いらいらせずにすむ。

 はまだアーサーの腕の中は居心地が悪いらしく、困ったような顔をしていたが、小さく「はい」
とうなずいた。











  倖せな蜜色