鉄道と馬車で帰るたびはなかなかつらいものだ。
「体いてぇ、」
アーサーが肩をぐるぐると回す。
列車の旅はアーサーにとってはなかなかつらいものがあった。というのも体が大きいので揺れも響くし、ベ
ッドのサイズもどうしても小さく思える。一応一等列車を上司は取ってくれたが、やはりしんどい。議会があ
るのでビックベンに早く戻らなくてはならないという決定事項さえなければ、行きと同じように夜くらいはホ
テルに泊まっただろう。
体を起こして伸びをする。はもうおきているのか高い話し声が聞こえた。車掌と話しているのだろう。
「アーサーさん、おきまし・・・ご、ごめんなさい!!」
ひょこっと車室を除いたはアーサーの姿を見て硬直し、すぐに引っ込んでしまう。
それで自分が置き抜けで、シャツは羽織っているものの前が開きっぱなしだったことに気づいた。の国
ではきちんと服を着て寝るらしい。それにあまり肌の露出はしないのがルールなので、胸を強調し方を出した
りする最近のモードのドレスはどうしても抵抗があるといっていた。
アーサーのように女性と遊びほうけるということもないので、男性のことも知らないのだろう。そういう意
味ではまじめだった。それは聞くも同じだ。
アーサーは仕方なくボタンの前を順番にしめていく。多少苦しいが、このまま朝食の席に並べば、彼女はこ
ちらを向いてくれそうになかった。
「おはよう、」
「あ、おはよう、ございます。」
食事の用意されている部屋に入ると、は恥ずかしそうに顔を背けた。まださっきのことを気にしている
のかと少し意地悪い気分になる。
「なんだ、そんなに気になるなら、見ていっても良かったのに。」
「アーサーさん!」
は顔を真っ赤にしてうろたえる。
絶対この反応はろくに男を知らないんだろうなぁと想像して、アーサーは楽しさに思わず口の端を吊り上げ
て笑った。
ベルリンの国際会議での一件があってからも、二人が何か大きく変わったということはない。は相変わ
らずものをはっきりいえず引っ込みがちだし、アーサーはものをはっきり言い過ぎるが、それでも、朝食は必
ず一緒にとることになった。
は最初無理はしなくて良いと唸ったが、昼は仕事に出ることも多く、夜は一緒に食べられない用事が多
い。結果的に、朝食ならば一緒に食べてもう一度二度寝すると言うことだって可能だ。だから朝食を一緒にと
ることにアーサーは決めた。
低血圧で眠たいが、こればかりは仕方がない。
「無理、しなくても良いですよ。」
はあくびをするアーサーに心配そうな顔をする。
「良いさ。後でも一回寝るから。」
「もうすぐ、ドーヴァー海峡に着くそうなので、船に乗り換えですけど。」
「そうか。案外早いな。」
アーサーは起きぬけやったように肩をまわす。
「どうしたんですか?」
「あぁ、体が痛くてな。やっぱ汽車はきつい。」
あと数時間でも体が痛いのには代わりがない。
出来れば動きたくないが、帰ったその日に議会の予定だ。議題は常に山積みで、出たくはないがアーサーと
て出ないわけにはいかない。一週間後には皇太子妃主催のお茶会まで控えている。それでアーサーははっとし
て顔を上げる。
「、おまえ皇太子妃主宰の茶会があるんだが、来るか?」
アーサーは片手間に尋ねる。
皇太子妃であるアレクサンドラ妃は極東日本から来たに興味を持っていた。だからアーサーを呼ぶと同
時に〈ぜひとも〉というありがたくない言葉つきでをも誘ったのだ。そういう茶会やら夜会やらのを
つれてきてくれという王族やら貴族は星の数ほどいたが、大方は断っている。しかし皇太子妃ならば会わせて
おいても良いかもしれないとは思っていたため、答えは保留にしていた。
「え、皇太子妃、殿下・・・・ですか、」
ひくりと唇の端を引きつらせて、彼女はうつむく。それは大方の場合は気乗りしない時のしぐさだった。
「やっぱ、無理か、」
「いえ、無理ではないですけど、ただ、失礼が・・・・」
「一応うちわだけのもんだから、言っても俺と皇太子妃だけだけどな。」
それほどかしこまった茶会ではなく、ただアーサーを呼ぶためだけの茶会なので、人も少ない。
「エドワード皇太子も来るかもしれねぇが・・・・・まぁ女に現抜かしてこねぇかも。」
「え、ご側室ですか?」
はなんでもないことのように尋ねる。聞きなれない言葉で、アーサーは首をかしげた。
「側室?」
「はい。おめかけさんですね。日本でも江戸時代以前は結構正妻のほかにそういう方がいらっしゃったので、
それかなぁと思って、」
どうやら妻として公に認められているが、第一身分ではない妻のことを言うらしい。イギリスではあいにく
公妾というものが存在していたが、あいにく今は時代遅れだ。ただし、現皇太子のエドワードにはたくさんの
愛人がいるわけだが。
「そんな感じだな。」
側室なんて形式張った物では無いが、ようするにただの浮気相手である。皇太子妃は非常に美しい人ではあ
るが、何故か皇太子の眼鏡にはかなわなかったらしい。その辺は他人には分からない難しい事情があるのだろ
う。
「まぁどっちでもいいさ。俺を信頼できないし放ってかれそうで無理ってんなら、しゃあねぇし。」
アーサーは軽い調子で手を振る。
国際会議の帰りに、プロイセンのギルベルトとオーストリアのローデリヒにこってりやられたのだ。に
(女性に)酷いことをするな。次やったら要するに各国大使館から菊のいる日本に帰すぞと言うことだった。
ロンドンには各国大使館が並んでいる。アメリカやイタリアも賛成していたから日本でなくても、そのどこか
に入れば彼女の勝利と言うことで分が悪すぎた。
喧嘩の結果は、迂闊なことをすれば本気で帰られそうなので、にかなり良い条件での講和と言うことに
なってしまった。やはりギルベルトの後ろ盾はちょっと無いと思う。そして結局アーサーは誰にも味方になっ
てもられず矢面に立たされた。
『嬢もそういう気分だったのですよ。』
ローデリヒの最後の言葉が耳に痛い。
「いぇ、あ、の、アーサーさんが困りませんか?」
「は?」
「だって、わたしを、連れていって、失敗したら、アーサーさんが困りますよ。」
は少し目を伏せて言う。
それは菊の顔に泥を塗ったらどうしようと心配していた姿と一緒だ。今度はアーサーの方を心配している。
アーサーは思わずの言葉に笑う。
「別に関係ねぇよ。だって俺はイギリスだぜ。誰も国に牙むかねぇよ。」
人間ならいざ知らず、アーサーに怒ったところでこの国に住まう限りは国であるアーサーの手の上にあるの
だ。結局の所何も出来ない。
「そ、うですか、」
は納得したように頷いて、くるりとした丸い漆黒の瞳でアーサーを見上げる。
「あの、行っても、良いですか?」
「来るか?」
「はい。ご迷惑でなければご一緒させて頂いても、」
「もちろんだ。こっちから誘ったんだしな。」
珍しく帰ってきた好意的な返答に、アーサーは満足げに頷く。
こうして少しずつでも良い。近づけるのだろうか。
そう思うと、距離のもどかしさを感じつつも、嬉しかった。
この感情の意味 を