結婚のために日本を発つ前夜はの方が号泣だった。
「ここって、私が泣く所じゃないんですかね。」
菊が困ったような顔で言う。
ところが送り出す側の菊が泣く前に、送り出される側のが号泣してしまったの
だ。日本と仲の良いアメリカのアルフレッドも不思議そうにを見ている。
「案外アーサーって嫌われてるんじゃないの?」
「うるせぇよ。」
アルフレッドの遠慮の欠片もない言葉にアーサーは反論して、の頭を撫でる。
「おいおい、何を泣いてるんだ。」
「だってぇ、き、菊と、ふぇ、きくぅ・・・・」
は菊と離れるのが寂しいと途切れ途切れに意味の分からない言葉を吐いてから、ぎゅっと菊に抱
きつく。菊はアーサーに哀れみの目を向けてから、よしよしとの頭を撫でた。
一応一度日本に戻ってきていたは日英同盟締結と同時にアーサーと結婚することになった。日本
の結婚では一度嫁いでしまうとほとんど帰れないというのが原則で、もその思いが強いらしくて、
夕飯を食べ終わった頃から菊と離れる寂しさのあまり泣きだしてしまったのだ。
元々兄妹ふたりきりでやってきた気が強く、特には菊と生まれた時から一緒というのがあって、
本当に仲がよい。兄妹仲良くというのは自分の例を見ても分かるとおりそれ自体は良いことなのだが、
あまりのお兄ちゃん子ぶりに、たまにアーサーですら癖癖することがあった。
「まったく、明日イギリスに発つというのに、酷い顔ですよ。」
の目尻の涙を拭いてやりながら、菊はもう途方に暮れた顔をしていた。
「どうせわたしも調印式のために一歩遅れてイギリスに行くのですから。それに今は船で時間がかかる
とはいえ、イギリスにだって行けるし、日本にだって帰ってこれるのですからね。」
宥めるような菊に、それでもはしがみついたままだ。
「良いなー、俺もみたいな妹欲しい―。」
アルフレッドが菊に縋り付くを見ながら唇をとがらせる。
「本当に貴方は・・・・困った子ですね。もう子供ではないのですから、」
菊は言うが、菊を涙でぬれた漆黒の瞳で見上げてくるはどう見ても子供そのものだった。
どうしましょうかと菊は内心で考える。隣に座っているアーサーは菊にすがりつくに面白くなさ
そうな顔をしている。当然だろう。恋人が兄とはいえ男にすがり付いている姿は気分のいいものではな
いと思う。かといって菊が引き剥がそうものなら、もっと泣いてしまうだろう。
仕方なく菊はを抱きしめてとんとんと小さい頃したようにやさしく背中を叩いた。口ずさむ歌は
江戸子守唄といって、江戸で歌われていて、幼い頃よく泣くに歌ってやったものだ。規則的な振動
と懐かしい歌になき疲れていたは目を細める。しばらくするとは安心したように菊の肩に頬を
預けたまま眠ってしまった。
「変わっていませんね。本当に、」
菊はゆるく微笑んで軒先の向こうの空に浮かぶ月を見上げる。夜泣きの酷かった彼女を抱きしめて見
た月は神社でのものだったが、同じだ。昔と、同じ。
「すごいなぁ、」
ぐっすりと眠っているの顔を覗き込んで、アルフレッドは感心する。
「多分アーサーには一生まねできないぞ。」
「うるせぇな。できるかも知れねぇだろ。」
アーサーが反論を返すと、菊が首を振った。
「別にアーサーさんはの兄ではないのですからできる必要はありませんよ。」
「・・・・そう、か。」
アーサーは複雑な表情でうなずく。
「すいませんね。本当にこの子は・・・・」
菊はアーサーに謝罪する。
本当ならばイギリスに行くのだって楽しみだと笑ってもよいはずなのだ。なのに彼女は不安のあまり
泣き出してしまった。アーサーは少しばかり傷ついただろう。
「決してあなたと結婚することとか、イギリスに行くことが嫌だというわけではないのですよ。ただ寂
しがりやなだけなんです。」
菊の援護に、アーサーは苦笑する。
「わかってるさ。ちょっと複雑だけど・・・」
「本当なんですよ。あなたとの生活自体は、楽しみにしているのです。」
菊は眠っているの頭をそっとなでる。
日ごろ服やらにまったく興味のないだが、それでも小さなことを気にしたり、マナーを学んでみ
たり、ずいぶんそわそわしていた。もともと引っ込み思案で外に出たがらない妹が、イギリスに行くこ
とを楽しみにしている姿には、菊も驚いたほどだ。
は確かに昨年まではイギリスにいたが、イギリスへと送り出す時は、問答無用で嫌がるを説
得しきれず、プロイセンのギルベルトに頼んで半ば無理やりイギリスに行かせた。あまりの寂しさに船
ではずっと泣いていたというから、日清戦争で日本が危なかったとはいえ、かわいそうなことをしたも
のだと思う。
それなのに今回はそんなこともなく、泣き出したのは菊と離れるという寂しさだけだった。イギリス
で暮らしていく不安は口にしていたが、それでもイギリスに行くこと自体を嫌がっていることはないの
で、進歩だと思う。
そしてその進歩を生み出したのは少なくともアーサーだった。
「菊も、寂しくなるもんな。」
アーサーが菊にもたれかかって眠るの安心しきった表情を見ながら言う。菊を慮ってくれている
らしい。
「…寂しくはなりますが、が思うほどではありませんね。あえなくなるわけでもないですし。」
菊は小首を傾げてアーサーを見た。
菊はが生まれる前も一人だった。一人の時間は長かったし、それが当たり前だったので、いつで
も菊がいたとは条件が違う。菊、菊と手を伸ばしてくる彼女はかわいかったけれど。
「それよりもこれからしっかり頼みますよ。をあなたに託すんですから。」
菊は淡く笑って言う。
彼はいつも優しい目で妹を見ていた。ギルベルトに甘やかしすぎだとののしられようが怒られようが
、ひとまず目いっぱい甘やかしていた。彼にとってはかわいい妹に他ならない。
「もちろんだ。責任を持って請け負うさ。」
アーサーは神妙にうなずいたが、菊の表情は穏やかそのものだ。
「大丈夫さ菊。アーサーにがいじめられていたらヒーローの俺が助けてやるぞ!」
アルフレッドがばんばんと菊の背中を叩く。
菊はだんだんアルフレッドの態度にもなれてきたのか、小さな笑みを浮かべてうなずいた。
「頼りにしていますよ。」
「頼りにするなよ、」
アーサーは一応突っ込みを入れて、を見る。漆黒の瞳はまぶたの裏側に隠れて、長いまつげだけ
が見える。
「昔は腕に収まるくらい小さかったのですよ。あっという間に大きくなって、」
菊は本当に懐かしそうに言う。は生まれてからまだ100年ほど。自分たちの常識に当てはめれば非
常に若い。それなのにもう成長したのは彼女のつかさどる思想の広がり、もしくは国の広がりを意味し
ている。
「あっという間に大きくなってしまったので、なんだか少しもったいない気分なんですけど、ね。」
国はゆっくり大きくなるものだから、すぐに大きくなって、自分の手から離れてしまうに、やは
り菊も少しは寂しいのだろう。
その気持ちはアーサーも何となく知っていた。だが、そんなにかわいらしい感情ではない。隣のアル
フレッドをじろりと見る。彼も大きくなるのは早かった。異常なほどに。かわいかった時期なんてほん
の一瞬で、苦い思い出のほうがあまりに大きいが。
「大切に、してくださいね。」
菊はまじめな顔でアーサーに言う。
「もちろんだ。」
アーサーもまじめな顔で返す。
菊はおにいちゃんで、アーサーは恋人だから役目はきっと違うんだろう。
でも、何があってもだけは守ろうとその気持ちだけは同じであると心から思っていた。
きみのいのちのおもみ