きな臭い動きがあると言い出したのは、アーサーだった。菊も同じことを言った。
は政治に関してはさっぱりだし、アーサーの国であるイギリスのことも、母国である日本の国政
についてもよくわかっていない。そのため何をして『きな臭い』と言っているのかはよくわからなかっ
たが、1914年6月28日、大きな変化が訪れた。
「大変です!!」
アフタヌーンティーの時間、はのんびりとアーサーと休日を楽しんでいた部屋に、あわてた執事
が駆け込んできた。
1902年に結婚してからもうはや12年。イギリスに住み始めてもう長く、イギリスを我が家だと
認
識することも出来、ヨーロッパにも多数友人が出来たためなじんでいたは十数年で執事が勝手に
主の部屋であるアーサーの部屋に入ってきたのを見たことはなかった。
「どうしたんだ?」
執事のただならぬ様子に、アーサーは紅茶のカップを置いた。も彼に倣ってカップを置き、執事
の息が整うのを待つ。
「ボスニアで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人に暗殺されたそうです!!」
執事が大きな声で叫ぶ。アーサーは呆然とした。
「・・・それはお気の毒なことです。フランツ=ヨーゼフ1世陛下も、さぞかし気落ちなさっているで
しょうね。」
は前に一度会った穏やかな瞳をした皇帝の姿を思い出す。
息子であった皇太子を自殺で亡くし、美貌で有名であった皇后を暗殺になくし、また再び皇太子が暗
殺されるという不幸に、は憔悴する年老いた彼を思った。だが執事もアーサーもまったく違うこと
を考えていたらしい。
「やばいな。」
アーサーはあごに手をあてて考えるそぶりを見せる。
「何か、やばいのですか?」
は状況がわからずのんびりと問いかける。
暗殺というのは最近王族などを殺す際にはよくある話で、実際にロシアのアレクサンドル2世も暗殺
されているし、ほかにも王族が暗殺された話はよくきく。もちろん暗殺は遺憾なことではあるが、普通
に追悼の意を示すのが、他国の反応だ。そう思っていたは深刻な顔をするアーサーや執事の意図が
よくわからなかった。
「おまえ、あの辺りがなんていわれてるか知っているか?」
「・・・ヨーロッパの火薬庫、でしたっけ?」
「そうだ。その由縁はわかっているか?」
「えっと、あの辺りはいろいろな国がとったり取られたりしているから、ですよね。後は民族がいろい
ろだって。」
は兄の話を一生懸命思い出す。
バルカン半島と呼ばれるヨーロッパの火薬庫とあだ名される地域は、民族の流入が激しく、セルビア
にセルビア人が住んでいるとは限らず、そして地域としてもさまざまな国の支配下に入っていて、民族
運動などが大変だと菊に教えてもらった。特に南下政策を推し進めているロシアとの争いが熾烈で、も
ちろん日本も日露戦争についてはそれが原因で争っていたのだが、アジア方面での進出をくじかれたロ
シアの目は、次は当方に向いているという。菊は東方は戦場になる可能性がいつでもあるし、民族問題
で治安も良いとはいえないため、あまりそちらの方には行かないようにと釘を刺された。
本当ならばヨーロッパに住んでいるのほうがそういったことを把握してしかるべきなのだが、ど
うにもは政治関係には疎い。
「そうだ。で、皇太子がセルビア人に暗殺されればどうなる?」
「・・・・セルビアさんとオーストリアさんは戦争ですか?」
「セルビアの親玉が誰かはわかってるか?」
アーサーの質問に、はよくわからず首を振る。東方の細かい国が誰の支配下に入っているかまで
はは把握できていない。アーサーはそれすらもわかっていたのだろう。
「ロシアだ。」
不機嫌そうにスコーンを手にとって、べったりとイチゴジャムを塗る。
「よく聞けよ。1909年にロシアはオーストリアとセルビアは独立させますが、ボスニアをオースト
リアが併合することは支持しますっていう約束をしてるんだ。」
要するに交換条件。ロシアはセルビアの独立を支持することによって南下政策の足場にしようとし、
オーストリアはボスニアを併合することで東方への足がかりとする。お互い要するに小国を食い物にす
ることで一応の決着を見たわけだ。しかしもちろんオーストリアがセルビアと戦争を開始すれば、この
交換条件はなかったことになり、それに怒るのはロシアだ。
「オーストリアさんと、ロシアさんが戦争ですか?」
は不安そうにアーサーを見上げる。アーサーは首を振った。
「それだけですめば良いが、無理だろうな。オーストリアと同盟しているのは?」
「ドイツさん。です。じゃあドイツさんも戦争に参加するってことですか?
「そうだ。で、ロシアが同盟しているのは誰だ?」
「1894年の露仏同盟、あと1904年の英仏協商と1907年の英露協商(二つあわせて三国協商
と呼ばれる)ってことは、あれ、・・・え、っと。」
アーサーの話を総合すると、オーストリアにはドイツ帝国が味方につき、ロシアには少なくともフラ
ンス、強いてはイギリスが味方につくことになる。同盟は軍事的相互援助も含まれるが、協商は協商で
一応商業部分だけで同盟よりは決定力が低いので、イギリスが参戦しないということも、出来なくはな
い。しかし、今フランスとの経済援助関係は重要になっているので、協商を理由に参戦することは可能
だ。ロシア、フランス、オーストリア、ドイツ、そしてイギリス、ヨーロッパの主要国家が戦争を始め
るということになってしまう。
「やばいのはわかったか?」
「は、はい。」
「ついで言うと、イギリスが参戦するとやばいのは日本もだぜ。」
アーサーはやっと話を把握してきたに付け足す。
「日英同盟は、軍事的な相互援助も含まれるからな。」
1902年に締結した日英同盟において、1904年から日本がはじめた日露戦争では、イギリ
スから多大な支援をもらった。当然だが、これが反対の立場になれば、日本が援助することになる。
「そ、そんなことになったら、それぞ大陸は、」
「戦場だな。」
アーサーはあっさりと言い捨てる。
「まぁどっちにしろそりゃ大陸の話で、イギリスは離れ小島だからな。しばらくは大陸にはいけないと
思った方がいいかもな。」
「・・・・大丈夫でしょうか。みなさん。」
は少しうつむいて大陸の国々のことを考える。
オーストリアやドイツとも親しいにとっては戦争で敵同士になるというのは悲しい事態だ。
「しばらくは日和見だな。みな戦争を回避しようと努力するだろう。」
兵器の進歩を見ても、おそらく次の戦争は大きなものになるだろう。列強同士が争えばなお更だ。そ
んなこと火を見るより明らかなので、どの道ひどい争い方はしないだろう。戦争を回避しようと努力す
るはずだ。
「そ、そうですね。気をつけないと、」
は戸惑いをありありと浮かべて緊張した面持ちでスコーンを取る。
彼女は江戸時代末期に生まれたためまだ若く、内戦は見たことがあっても、日本においての対外戦争
である日清、日露戦争に関してはイギリスにいたこともあり戦争というものを間近で見た経験はない。
「・・・・・なんだか、嫌な予感がします。」
はぽつりとそう零した。
「そうか?いつも通りだろ?」
「なんだか、違う気がするんです。」
アーサーにとって戦争は初めてではない。列強のもめ事はいつも通りだと、そう思ったけれど、彼女
はスコーンを睨む。それはアーサーが作ったスコーンで、色が黒い。彼女の手が震えている。
丸くて黒いそのスコーンは、そのままぱたりと絨毯の上に落ちた。
願いの代償