不穏な静けさと各国のやりとりが続けられた7月23日、オーストリア最後通牒がオーストリア側か
らセルビア側に突きつけられた。48時間という時間を制限されたこの通牒は10箇条からなり、皇太
子暗殺に関わった犯人の法廷尋問にオーストリア=ハンガリー側の機関が関係することが要求されてい
た。

 これは事実上の内政干渉―セルビア側の主権を損なう行為だったが、受け入れなければ戦争になる。





「そんなもん受け入れられるはずがない!」





 アーサーは士官からの報告をビックベンの執務室で受け、額を抑える。





「エドワード・グレイ外務大臣も同じ意見でした。侵入するための口実でしかない、と。」





 士官の顔色も青い。ばたばたと廊下を走り回る士官や軍人、そして官吏。は正確に状況を把握で
きたわけではないが、それでもただならぬ事態であることは理解できたようで、不安そうに口元に握っ
た手をもっていっている。





「戦争に、なるですか?」





 は信じられないのか、士官に問うと、彼はアーサーにに教えて良いかを目で確認してから、
神妙に頷いた。





「はい。おそらくは。」





 答えを聞くと、はその漆黒の瞳を悲しそうに細めた。オーストリアの老皇帝のことを思いだした
のだろう。長らく会ってはいないが、老皇帝はを大変気に入っていた。そしてそれはも同じだ
ったようだ。





「政府はベルギーが侵犯され次第、開戦すると言うことです。」





 士官の答えにアーサーは納得する。

 ベルギーは元々イギリスが認めて独立させた国だ。その責任はイギリスにもある。もともとベルギー
を侵犯すれば侵犯した側に宣戦布告すると宣言してある。だから、オーストリアとドイツがどう出てく
るかだ。





「植民地との連絡も取っているんだな。」

「はい。」





 士官は頷いて、頭を下げる。

 イギリスはまだカナダやオーストラリア、ニュージーランドなどの海外植民地を保持している。宗主
国であるイギリスの戦争は彼らの戦争ともなるのだ。

 外交折衝やら、政府の指針やらの報告に次々にアーサーの元に人が押し寄せる。政治や戦争をするの
は国民だが、国はアーサーなので、報告は義務づけられている。律儀にたくさんの方向を受ける彼に驚
きながら、はまだ戦争というものがよくわからなかった。


 軍隊があるのだから、“さぁ攻めてきたまえー”ではいけないのだろうか。

 はまだ子供で軍隊の維持には莫大なお金がかかることも、兵器が消費物であることも、莫大な人
間が死んでいくことも、現実的な問題としてはよく理解できていなかった。日清戦争、日露戦争で日本
が得た物は大きい。勝てば良いことが有ると言うことは知っていたが、ただ戦争があまり良くないこと
であると言うこともわかっていた。





「フランスは即時動員が出来る状況にあるのか?」





 アーサーは様々な報告を受けながら、一番重要なことを嫌そうな顔で尋ねる。

 オーストリア、ドイツから攻められるとして、フランスは兵士を動員する準備が出来ているのか。一
番戦争では重要なことだ。

 1800年代のナポレオン戦争時期が最盛期だったフランスは、最近ではイタリア予備軍のような弱
さだ。そいつを助けると思うと頭が痛いし、大変不安なところだった。ちなみにドイツとの戦争で記憶
に新しいのがぼろ負けした普仏戦争だ。モルトケとビスマルクのコンビに綺麗にやられたあれから軍備
は刷新したんだろうなとアーサーは思う。リベンジに燃えていたのは知っているが、刷新しているかど
うかが重要であって、気持ちだけならいらない。





「・・・・・どうなんでしょうね。」





 士官は正確な答えを避けた。

 要するにその危惧は変わっていないという事だ。





「ひとまず、俺達はベルギーが侵犯されない限り、参戦しないって事で良いな。」





 アーサーはこみ上げてきた頭痛にため息をついて確認する。士官はそれに肯定の意を示した。

 フランスの尻ぬぐいをしてやる気はない。

 士官や官吏はそれだけを確認し終わると、一斉に執務室から出て行く。アーサーは面倒くささに椅子
の背もたれに身を預けた。





「大丈夫ですか?」





 は元気のない彼に心配する。国土が傷つけば、アーサーだって傷つくのだ。





「大丈夫だ。まだイギリスは何もされてないしな。まだ何も始まってない。始まるかもって話だ。」





 アーサーは士官達が持ってきた書類をぱらりとめくる。それは各国の外交機関の動きだった。





「一応ロシアとドイツが直接折衝するらしいな。これで収まってくれれば良いんだがな。」

「そうですね。」




 も素直に頷いてから、はっとした顔をした。





「どうした?」

「日本に、菊に、連絡を取りましょうか?」





 はアーサーに気遣わしげに尋ねる。





「待ってくれ。まだ戦争になると決まったわけじゃない。」





 アーサーはを止めはしたが、何時かは必要になるかも知れないとも思った。

 日英同盟がある上、がいる限り菊はおそらく援助を惜しまないだろう。そう言ったことに
使いたくはないが、それでも必要になるときが来るのかもしれない。本当に交渉が決裂すれば、その可
能性も出てくるだろう。





「ドイツのルートヴィヒさんはどうするのでしょうね。」




 は少し項垂れた様子で呟く。

 ドイツのルートヴィヒとその今や一部であるプロイセンのギルベルトはもよく知り、仲も良い。
しかし最近では1905年に日露戦争でロシアが敗れると、黄禍論をドイツ帝国の皇帝であるヴィルヘ
ルム2世が唱え、白人主義を押し出した。それは急速に力をつけた日本への警戒があり、アメリカなど
でもうっすらとその気はあるが、イギリスには少ない。はそのあおりもあって、最近では彼女はド
イツに行くのを控えるようになっていた。







「どうしようもないだろ。国王は主戦論者だ。ついでにイギリス嫌いだ。」

「え、でも・・・・母后はイギリス人じゃ・・・」

「そうなんだがな。生憎嫌われてるんだ。」





 アーサーはため息をついた。

 ドイツの現国王ヴィルヘルム2世の母親はヴィクトリア女王の第一王女ヴィクトリアだ。しかし残念
ながら、イギリスを反キリスト教的自由主義の国と批判している。





「・・・なんだか、悲しいですね。」

「まぁ、君主権の強い国から考えたら、議会が統治している議会君主制は変なんじゃないか?」





 アーサーは机に頬杖をつく。はよくわからないという顔だった。

 日本の天皇は主権を抱いてはいるが、あまり政治に口出ししない。それが天皇の昔からのあり方であ
ると言われてきたには、主権を抱き、口出しできる立場にいるのに何も言わない天皇を非常に日本
人らしいと考えていた。

 しかし、悲しいのはそこではない。





「だって、従兄弟でしょう?」





 は眉を寄せて組んだ自分の手を握りしめる。

 ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の母親と今のイギリス国王ジョージ5世の父親エドワード7世は姉
弟だ。要するに従兄弟同士に当たる。





「どうしてお話し合いで解決することは出来ないのでしょう。」





 とて兄の菊がいる。もしも彼と喧嘩になるようなことがあれば話し合いで解決しようとしただろ
う。





「難しいな。国家間の利益となるとな。自分の家族すらも忘れるんだよ。」





 アーサーは悲しそうな顔をするの頭をそっと撫でる。

 はアーサーの手をきゅっと握って温もりを堪能するように、自分の頬にあてる。

 この言葉が、ふたりの後の関係を示す皮肉になるなんて、ふたりともが考えなかった。









 
そしてわたしは縋るように