1914年7月25日、セルビアが10箇条のオーストリア最後通牒のうち8箇条に批准する事を決
定。しかし納得しなかったオーストリアは7月28日セルビアに宣戦布告。動きに警戒したロシアが7
月31日、総動員令を発布。8月1日ドイツが総動員令を発布、同日ドイツはベルギーに無害通行権を
要求。ドイツが2日ロシアに対して、3日にはフランスに対して宣戦を布告した。8月4日、イギリス
はベルギーへのドイツの侵犯を理由に宣戦布告。

 欧州大戦―第一次大戦と言われる史上最悪の戦争の始まりである。

 ドイツはベルギー側からフランスに侵入、ベルギーのリエージュ要塞攻略に乗り出し、仏軍と海外派
兵したイギリス軍はもうすぐドイツ軍と激突するだろう。しかしながら、戦況は思わしくなさそうで、リェ
ージュ要塞がおちるのは時間の問題との報が入った。また、海外派兵のイギリス軍の戦況もあいにく思
わしくなさそうだった。





「・・・・なんて、ことでしょう。」





 は戦況の報告に眉を寄せる。その戦火は、アーサーですら絶句のものだった。

 陸軍においては類い希なる戦力を持つドイツ帝国だけあって、海軍力では強いイギリスでも、勝利す
るのはやはり難しいのかも知れない。フランス軍もあまり当てにならないというのが、実質的なところ
だった。





「あんの、へたれめ!」





 アーサーは苛立ち紛れに叫ぶ。それはフランシスへだろう。





「フランスは機関銃の数も動員速度も、足りていなかったようです。」 





 士官の淡々とした報告に、の方が顔を上げる。フランスの軍備の不足は否めないというのが、士
官を含み政府の見解のようだった。挙句の果てに列車を使った戦線への動員速度も遅い。もちろんドイ
ツの攻勢が早すぎたというのもあるが、それでもフランスのずさんはないわけではなかった。





「機関銃って、あの恐ろしい?」





 隣で報告を黙って聞いていたは珍しく士官に小首を傾げて尋ねた。あまり軍事的なことに口出し
をしないの言葉に士官は戸惑いを覚えたようだ。





「恐ろしい?」





 アーサーがの言葉を借りて繰り返す。機関銃はすでにイギリス軍にも20年以上も前に配備され
ているが、それほど使用したことがない。と言うのもここ数十年大規模戦争はなかったからだ。ヨーロ
ッパでは。






「日露戦争の時に、旅順攻囲戦の時に、あれでもの凄い死者が出たと、菊に聞きました。・・・・隊列
になった人を殺すにはとても有益な手段であると、将軍の1人がお話ししていました。」





 はぶるりと震えるようなそぶりを見せる。

 1902年の日英同盟時にアーサーとは結婚したが、それからも幾度となくは日本に帰って
いるし、日本の大使館で将校や官吏達と小まめに連絡は取っている。特に海軍将校と話すのはにと
っては楽しいらしい。そのためそう言った情報を断片的ではあるが得て帰ってくることもあった。当然
その情報は軍事にも政治にも全く関わらないにはどう考えても処理しようのない無意味なものでは
あるが、アーサーにとっては意味があった。





「ちょっと日露戦争の時の機関銃についてのデータを誰か調べられるなら調べてこい。ないよりましだ
ろ。」





 アーサーは士官に命じる。士官は渋々といった様子だった

 信じられないのだろう。機関銃で大きな被害が出るなどと言うことは。それにそもそも戦争で被害が
出るというのは普通のことであって珍しい事ではない。だから機関銃なんて言う兵器ひとつの事を調べ
られるなら別の諜報を行った方が良いと思っているようだ。





「あ、ちょっと待ってください。あの、確か黒溝台(こっこうだい)会戦を調べてください。確か防戦
のために機関銃はなくてはならなかったと陸軍大将がおおせになってました。」





 青い顔ではアーサーの言葉に付け足す。





「ですが、クリスマスまでには終わるのではありませんか?」






 士官はになら言いやすかったか、間接的に反論する。への発言を装ったアーサーへの反論で
あることを彼女は気付かず、は拍子抜けしたのか、小首を傾げる。







「否、すいません。ただ皆がそう言っておりますから、調べが上がる頃には、もう終わっているのでは
ないかなと思いまして。」

「あ、そうなんですか?ごめんなさい、・・・・いらないこと言ってしまって・・・」





 は自分が発言を過ぎたとすぐに退く。アーサーはそんな控えめなを見ながら、士官に眉を寄
せた。





「ひとまず、調べておけ。黒溝台会戦についてもだ。良いな。」

「え、・・・あ、はい。」





 士官はアーサーに敬礼をしてから退出する。その表情からは悔しさが見て取れた。やはり調べるのは
よほど面倒で彼自身は反対だったのだろう。

 アーサーは士官の後ろ姿を見てから、長いすに座って書類を眺めているに目を向ける。


 彼女はおそらく、書類の内容なんて半分以上分かっていないだろう。別に彼女が馬鹿だと言っている
のではないが、彼女は本当に政治や経済、軍事について疎い。彼女の形質はもしかするとハプスブルク
、オーストリアに似ているのかも知れないとすら思う。

 戦争よりも音楽や美術を愛するあの国に。そう言うところでは調和を旨とする日本人らしい。

 しかし、世の中には善良な人間ばかりではないのだ。彼女がアーサーの隣にいることを利用し、扱お
うとする者だっている。先ほどの士官だってそうだ。





、おまえ、意見を引き下げるようなまねをあまりするなよ。」

「はい?」

「さっきの黒溝台会戦の機関銃の話だ。」





 アーサーが言うと、は少し目を伏せた。





「ごめんなさい。・・・出過ぎたことを、言ってしまって・・・」

「違う。言ったこと自体は俺達にとっては有益なことだ。もしかしたらと言うことだってあり得る。だ
が、士官はあくまで部下だぞ。」





 機関銃のことに関して、聞き返したのはアーサーだ。彼女の意見を聞きたかったのだから、それ自体
は出過ぎたまねではない。ただ単にアーサーの願いに素直に応えただけだ。

 問題はその後だ。あの士官はおそらく、を介して上司であるアーサーの命令をふいにしようとし
たのだ。明らかな意図があってを利用しようとしたのだから、悪質この上ない。個人的というか、
勝手な予測で決定を覆すことなどあってはならない。誰が決めたのだ。クリスマスまでに終わると。そ
してもその意図に気付くことになく、あっさりと自分の意見を退けた。





「・・・・・?」





 しかし、にはアーサーの言うことの意味が分からなかったらしい。困った、泣きそうな顔でアー
サーを申し訳なさそうに見ている。

 どうすれば良いんだろうなと、アーサーは眉を寄せて考える。結局答えは出なかった。





「仕方ないな。」

「・・・あ、の?」

「それもだな、仕方がないか、」





 菊がに甘いといつも批判しているが、自分もに甘いのかもしれない。

 あまり人を疑わず、善良な彼女に士官のことを説明するのは簡単だ。けれど、の人格が損なわれ
ることがあるのならば、言わないでおこうと思ってしまう。人を見たら泥棒と思え、なんていう教訓は常
に彼女の中にはないし、これからもあってほしくないと思う。





「まぁ、機関銃のことに関しては調べておいて損はないさ。クリスマスまでに終わったとしても、これ
からの戦争でどうせ必要になるんだ。」





 アーサーは書類を横の棚に置いて、に笑いかける。

 は本当に安堵したような表情をした。

 日露戦争は、あまりヨーロッパでは注目されていなかった。ヨーロッパで行われていたわけではない
し、相手が日本ということもあり、正直興味を持つ範囲の中には入っていなかったのだ。しかしながら
、この戦いは実質的には重要なものだった。

 日本とロシア、忘れてはならない。二国は決して軍事的に当時遅れてはいなかったということ。最新
の兵器、技術。そのぶつかり合いの端緒となったこの戦争の動向のほとんどは、関心を持って見られた
ことがなかった。

 大量の人々を殺す機関銃も、それから逃れるための塹壕も、すでに日露戦争で用いられ、多数の死者
を生んだなんて、ヨーロッパの人々は、何も考えていなかった。









 
守る道を貫く道を破壊の道を自滅の道 を