戦局は悪化の一途をたどっていた、

 8月16日ベルギーのリエージュ要塞は陥落、イギリス軍キッチナー陸軍元帥はこの戦争が長期化し
、最低3年は続くと予想し、新兵募集を画策していた。

 全体でフロンティアの戦いと呼ばれる4つの戦闘はアルデンヌの戦いでフランス軍は多くの戦闘要員
を失い、攻勢はおろか防御もままならなかった。イギリスの派兵軍がかかわった8月23日のモンスの
戦いではイギリス軍は持ちこたえていたがフランス軍が退却したため、それにあわせて戦線を下げざる
得なかった。戦死、戦傷者はすでに30万人といわれるほどになっていた。





「結局、ドイツ軍の猛攻はとまってねぇってこったな。」

「はい。」





 アーサーの落胆の声に将校は淡々と答える。軍人なので美辞麗句を望んでいるわけではないが、それ
でももう少し言い方を考えてほしいとアーサーは思った。もうちょっと愛想があってもいいんじゃない か。





「あと、国王陛下から姫の身柄をどうなさるかと、お話が?」





 将校は無表情のままぱらりと書類をめくる。アーサーは突然出てきた話に目を丸くした。

 は今、日本の将校などと連絡を取り合っている。長期戦になるようならば、日本にも派兵しても
らうことになるかもしれない。また、フランスが駆逐艦建造の依頼をしていたりと、を通していっ
てもらわなければならない事態もたくさんあった。その関連で、隣の別室で報告を受けている。






「身柄?」

「はい。日本の国王陛下が、姫の安全をたいそう心配していらっしゃるそうで、」





 ヨーロッパが危ないのならば、安全確保のために帰してほしいというのが日本の思惑らしい。一応夫
婦であり、彼女の身柄の決定権は日英同盟が破棄されようが日本が敵に回ろうがイギリスにあるという
ことになっているため、強制的にをさらうことは出来ないが、それでもお願いという形で懸念を表 明
したのだろう。






「国王はなんて言ってる?」

「・・・・出来れば帰さないでほしいといっておられます。」






 将校は小さく嘆息する。極東の小国のお嬢さんくらい帰してしまえとでも思っているのだろうか。


 しかしヨーロッパでの戦線が芳しくないことを考えれば、ヨーロッパではなく直接巻き込まれる可能 性
の低い日本との同盟関係は物資調達という意味でも必要だ。特にフランスは植民地もそれほど多くな
いし、駆逐艦などの物資も足りていないから、ほかの国で造ってもらわなければならない。

 窓口となるの存在は重要だ。






は、日本に帰した方が、安全だろうか。」






 アーサーは自問する。

 日本は派兵はしても直接戦渦に巻き込まれることはないだろう、対してイギリスは十分にその可能性
がある。いわれて当然のことではあった。






に直接その話はされているのか?」




 アーサーは将校に聞くと、将校はうなずいた。




「はい。もうすでに打診したとは聞いています。ただし、はっきりとした解答は得られなかったようです。」

「そうか。わかった。」





 が素直に帰ると言わなかったから、日本の国王も強硬には要請できなかったのだ。なるほどとア
ーサーは思って、将校の部屋からの退出を促した。





「お話、終わりました?」





 がそれを見計らったように部屋に入ってくる。後ろにはとも仲が良い仕官のヤマモト准尉が
いて、アーサーを見るとすぐに敬礼した。





「お前の方の報告も終わったのか?」

「報告って言っても私は聞いているだけですから。」






 決定を下すこともなければ聞いているだけ、下手をすれば国際情勢を教えてもらっているへの報
告は、下から上への報告というよりも、親から子供への事情説明によく似ていると昔、菊がぼやいていた。






「28日に帝国議会で遠洋作戦用の駆逐艦の建造が承認されたらしいので10隻は、来年4月には完成
するそうです。」





 はヤマモト准尉からの受け売りなのだろう、彼の表情を見て自分が間違ったことを言っていない
かを確認しながら言葉を口にする。






「来年4月か?ずいぶん早いな。」

「はい。がんばるそうです。」






 が誇らしげに答える。その無邪気な笑みは戦争をしているというよりも、ただ単におもちゃが完
成する子供のようだった。

 アーサーは冷静に、ということは、日本の派兵は最低でも来年の夏以降か、下手するともっとだと思案
する。






「では私はこれで失礼します!」







 敬礼をして、准尉が退出すると、部屋は二人きりになった。





「イギリス軍の戦局はどうですか?」




 は穏やかな表情でアーサーに聞いた。





「あまり、良いところはないな。」






 日本からの報告とは違って、イギリス軍に朗報はない。ドイツ軍の進行は止まっていないし、とめる
手立てもまだだ。どれをとっても楽しい話ではなかった。一発快勝してくれるとまた気分も違うが、そ
んな雰囲気もない。






「そうですか。でもまだはじまったばかりですし、パリもまだ落ちていないのでしょう?だったらまだ
大丈夫です。」





 は明るく言って、アーサーの手をとる。アーサーは、重ねられた彼女の小さなその手を握り締
めた。自分は、何におびえているのだろうか。

 先ほどの将校が言っていたが日本に戻るかもしれないという打診を思い出す。

 国益からいけば、彼女を国に帰すわけにはいかない。日本との同盟は今は一番捨てられないもので、
これからも頼っていかねばならないのだ。

 しかし、心の中では彼女を失うことを恐れている。もしかしたら、このまま彼女をヨーロッパにおい
ておけば、イギリスが攻められて彼女を失うという事だって、考えられるのだ。最悪の不安ばかりがふ
つふつと湧き上がってきて、いたたまれない。



 うつむいて考えていると、座っているアーサーの前にが立つ。アーサーはそっとその細い体を抱
き寄せた。の腹あたりにアーサーの頭が当たる。国が子供を生むことはない。それでも波打つ鼓動
は同じだ。





「大丈夫ですか?」





 労わるようにはアーサーの髪を優しくなでる。くすぐったさを覚えながらも、アーサーは心地よ
さに酔う。

 アーサーには当然だが母はいない。兄や姉など年上の兄姉も残念ながらいない。だからこんな風に誰
かに抱きしめられることも、頭をなでられることもなかった。不安に身を震わせながらも、いつもひと りだ
ったのだ。

 は違うのだろう。不安なときに兄がいて、兄にすがり付いて、そうして生きてきた。アーサーの
甘えに、はやさしく頭をなでる。

 アーサーは唐突に不安にかられた。このまま戦って、彼女を守れるのだろうか。





「日本に、帰るか?」





 を見上げて、アーサーは問う。それは言葉としては質問のようだったが、すがるような思いだっ
た。自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。は漆黒の瞳を瞬いて、首を横に振る。

 唇が、アーサーの額にそっと振ってきた。





「いえ、わたしは何があってもあなたの元で」





 柔らかな感触と共に頬をなでられる。寂しそうに、どこか悲しそうに微笑むの顔を見てから、ア
ーサーは目を閉じた。


 クリスマスまでには、



 前に士官が言っていたその言葉を信じたかったけれど、アーサーはほかの将校の報告から、それが難
しいと考えられることを、知っていた。




  臆病な俺