ドイツをはめるための艦隊戦の計画がウィルストン・チャーチル海軍大臣に渡され、実行に移されたの
は8月28日、ヘルゴラント・バイト海戦だった。その勝利の報はすぐにアーサーや、将校達にも伝えられた。





「まぁ、艦隊戦は、得意ですものね。イギリス。」






 はその話を日本との連絡役であるヤマモト准尉から聞いて肩をすくめた。


 やはり島国国家というのは海軍を増強する気がある。それは日本も同じで、実質的に日露戦争の時にか
の有名なバルチック艦隊を壊滅させた実績を持つが、やはり島国国家故の必要性に駆られたからだ。






「はい。巡洋艦など2隻を沈没させたと聞いています。」

「それはすごい。フランス戦線も、大丈夫ですね。」






 は少しほっとする。

 フランス戦線でのドイツの猛攻は英仏両軍にとっては大きな問題になっていたのだ。ひとまずの艦隊戦
での勝利に安堵したが、事情を知っているものからすればそう簡単ではなかった。






「いえ、陸軍に関してはフランスとともに課題が残ります。おそらくは、」

「フランスは、強いのではないの?」





 はヤマモト准尉の見解に首を傾げる。

 イギリスと同様に植民地を多数保持し、豊かな資源を持つ国であるフランス。限られた知識しか持たぬ
にとっては正直、欧米は先進国というイメージがあったが、彼は違うようだ。





「・・・・フランスは強いというか、うまく渡り歩く感じの、国ですね。それにドイツは陸軍に定評のあ
る国ですから。」






 相手だから言葉を控えたのか、それとも別なのか、彼はフランスのことをそう評した。

 微妙なフランスへの評価にはよくわからなくなったが、アーサーなら多分にうなずける部分のある
意見だった。





、さまは、あまりご存じないのですね。」






 ヤマモト准尉はに臆することなく言った。

 彼は、そう言う人だった。元々は海軍兵学校卒業で日露戦争での艦隊配備後、語学力を買われてイギリ
スの駐在員としてイギリスに来ているが、元はそれほど高い家の出でもなく、への連絡の使いっ走り
に使われているくらいだ。

 ただだからこそ、女であるに無駄事だとは言わず、きちんと戦争なりの事態を教えてくれる人だっ
たため、最近ではが頼んで彼を伝令役にしていた。





「・・・わたしは・・・・苦手ですね。」






 菊は多分様々な事態をちゃんと把握しているのだろうが、どうも自分は頭の作りが単純でいけない。そ
のことを少し恥ずかしく思う。勉強は、しているつもりなのだが、若い彼に言われてしまうと言うことは
そうなのだろう。






「そうですか。アーサー様はご存じですが、やはり性別でしょうか。」





 真面目に顎に手を当てて言った准尉には思わず笑ってしまった。


 彼はとアーサーがどういう存在かも理解している。それでいて、別段他の人間と何も変わらず接す
る。は国として扱われることが非常に少なく育ったため、腫れ物を触る雰囲気ではない彼を好ましい
と思っていた。






「私はそろそろ退出いたしますが、多分近日中にお伝えすることがあると思います。」

「はい?」

「おそらく、フランス戦線のことです。」






 准尉の言葉には眉を寄せる。8月に戦争が始まり、もうすぐ9月に入るが、大方の場合フランス戦
線に関しては良い知らせは皆無と言っても良い。イギリスからの派兵軍とフランス軍の死者は、が桁
を間違ったのではないかと思うほどに莫大だ。





「わかりました。覚悟しておきます。」






 は彼に分かるように頷くと、彼は少し悲しそうな顔をしてから、退出した。しばらくすると、隣か ら突
然大きな物音が聞こえた。

 彼が消えた扉を見ながら、は近くにあった椅子に腰を下ろす。国会議事堂においてのアーサーの部
屋の隣にあるこの小部屋をは与えられている。この部屋はアーサーの部屋の中にあって、出て行くた
めにはアーサーの部屋を通るため人の行き来はアーサーとて知っている。そして小部屋故にアーサーの部
屋に来た人々の会話や声も聞こえてしまう。

 たまに聞こえるのはアーサーとは思えないような怒鳴り声と、叱責だったり、拳を壁に打ち付ける音だ
ったり。はその音が聞こえるために肩を震わせる。ゆっくりと緩慢に、何かが壊れていっているよう
な気がした。

 元々激しいところのある人ではあったけれど、恥ずかしさ以外に他人を怒鳴りつけたり、叱責したりす
るのを見たことがなかった。





「大丈夫、かな。」






 は俯いて自分の手を握りしめる。

 口には出せないけれど、オーストリアのローデリヒや、ドイツのルートヴィヒ、ギルベルトは無事だろ
うか。どうしても考えてしまう。

 がしゃんと、隣の部屋から硝子の割れる音が聞こえては顔を上げた。




「アーサー!」





 は慌てて隣の部屋へと続くドアを開けると、そこには普通に机に座ったアーサーがいたけれど、じ
っと自分の手を見ていた。






「なになさっているんですか、」







 手は真っ黒に染まっていて、ところどころ黒が変な光沢を持っている。ぼたぼたと机の上にインクが落
ちていて、割れた破片もある。どうやらインク入れを割ったらしい。はアーサーの手をポケットから
出したハンカチで拭く。フランスの白いレースのハンカチはあっという間に黒と混ざる血の赤に斑に染ま
る。

 拭けば、傷の状態が分かる。結構切ったのか、黒いインクは手から拭き取れても、血は拭き取れなかっ
た。溢れてくる。






「しっかりなさってください。どうしたんですか?」

「あ、あぁ、」

「お医者様を呼んできます。」






 は呆然と自分の手を見ているアーサーに言う。彼は緩慢に首を動かして声のするの方を見る。
翡翠の瞳と目があった途端、その目が悲しそうに細められての手を掴む。






「アーサー?」

「何でもない。」





 アーサはの手を離して、インクでべたべたになった手をハンカチで拭いていく。






「話は、終わったのか?」






 目もあわさず尋ねる彼を見ながら、は泣きそうになった。

 代わりに手を伸ばして、彼を精一杯抱きしめる。先ほど自分の手にもインクがついてしまったからアー
サーの服が汚れてしまうかも知れない。でも、そんなことを気にしてはいられなかった。は懸命に彼
を抱きしめる。






?」







 アーサーが惚けたようにの名前を呼ぶ。抱きしめたまま僅かに身を離して、ゆっくりと額をあわせ
る。そして、アーサーの翡翠の瞳を見た。萌芽のように青青とした緑の瞳は、今は秋の変色する少し前の
ような嗄れた緑をしている。


 だって彼が年上であることは知っている。兄の菊ほどではないが、長い時を生きてきた。得たもの
がたくさんあったぶん、様々なものを亡くしてきた。それは悲しそうな目をする兄を見てきたにも分
かる。には、まだ分からない。でも、






「私は、アーサーの隣に、いるんですよ。」






 よく菊がそうしてくれたように、ぽんぽんと彼の背中を優しく叩く。規則的な振動は、昔兄が自分をあ
やしてくれたものだ。

 海外船がきて、日本がぐちゃぐちゃになって、皆が心乱したあの時代。心そのものであるのぐずり
ようは酷く、夜泣きだしては菊を困らせた。その度に、彼は1人ではないと、いつも傍にいるからと
を慰めた。





「ここに、いますよ。」






 何があっても一緒に居るという言葉が、どれ程力強いか。

 はそれをよく知っていた。














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