兄の目は決意に満ちていた。ドイツのルートヴィヒは困ったような顔をしていたが、同じだった。
こんな会合、壊れてしまえばよいと思った。





『戦争を、始めます。』






 閑かな声音で兄は言った。

 戦争がなんたるかを、は知らなかった。日清、日露戦争を日本は経験していたが、はいつも
イギリスの元に送られていた。1894年に日英通商航海条約が結ばれると同時にイギリスに渡り、1904年
日英同盟が結ばれた時にアーサーと結婚した。有効の証として、天照大御神の、日本の心である
アーサーと結婚したけれど、それは決して無理矢理ではなかった。本当に幸せだった。彼と過ごした日 々
は。


 徐々に怪しくなってきたのは、軍縮会議が繰り返された頃から。どんどん列強と話が合わなくなって
いった。日本も、ドイツも、そしてイタリアもだ。苦しんで苦しんで、皆追い詰められていた。だから 、他
者から奪うことを始めた。





『貴方がイギリスにつくも、日本につくも、自由です。貴方は私の妹であると同時に、イギリスの妻で
もあります。辛いことにはなるでしょうが、どちらについても、同じです。』





 どうすると、菊が決断を迫っていた。その漆黒の瞳はどこか病んで、愁いを含んでいた。

 いつから、彼はそんな目をするようになっていったんだろう。第一次大戦後、ヨーロッパは大変で、
アーサーも困った顔ばかりしていた。大恐慌もあった。その頃から、みんな徐々におかしくなっていっ
たのだ。みんな、みんな。


 国である菊と、心である。それは二つの日本の要。どちらがかけてもいけない。





 ――――ふたりで、助け合って。どちらが欠けても、駄目なのですよ。





 おばあさまの言葉が胸の中によみがえる。心と国は、離れては駄目だと、祖母は言った。それにこれ
ほどに傷ついている菊を放り捨てて、自分だけ幸せでいるなんて事は、出来ない。誓ったのだ、神社を
出るあの日に、この人と一緒に居ようと。





『帰ります。菊の元に、帰ります。』





 淡く笑んで、そう答えた。少し悲しかったけれど。そう答えると菊はほっと安堵の表情でを抱き
しめてくれた。不安だったのかも知れない。彼も自分と同じように。

 国同士というのは本当に難しくて、国際問題になってしまうと昔のように、菊が上に座っているだけ
ではいかなくなってしまった。2人で一緒に遊んでいた、2人だけで遊んでいた頃には、もう戻れないの
だ。外に大きな物があると、知ってしまったから。





「少し、日本に帰ります」





 アーサーにそう言うと、彼はあっさりと受け入れた。

 最近日本とアメリカの議論は平行線を辿り、利害関係でも対立していたし、中国との関係も何やらき
な臭くなっていたが、里帰りはいつものことだった。だから彼はの話をあっさりと請け負った。遠 く
はあるけれど、兄が恋しいのも知っていたから。


 は複雑な気分になった。

 おそらく、帰ってくることはしばらくはないだろう。兄は中国との戦争を始めると言っていた。ドイ ツも
ヨーロッパで戦争を始めるかも知れないと、曖昧なことを言っていたけれど、おそらくは。

 どれ程の規模の物になるのだろうか。それは女のには分からない。





「そうか、気をつけて帰れよ。案外今でも海難事故とかあるんだからな。こないだトルコも沈んだんだ
ろ。日本周辺で。」





 アーサーはいつも通りの里帰りだと思っているらしく、笑っている。

 エルトゥールル号事件の話をしているのだろう。オスマン帝国の船が1890年に沈んだ。それも日本の
和歌山県沖でだ。老朽化、物資の不足、そして船員のコレラという悪条件でありながら無理矢理に出港
してしまった船は、和歌山県沖で沈んでしまった。台風による強風で座礁してしまったらしい。





「神風は、怖いですからね。」

「おまえ、向うの神様がルーツじゃねぇのかよ。」

「私は太陽の神様がルーツなんです。それにいつの間にかなんだか皇国史観とか出てきちゃって、よく
わかんないことになってますからね。」



 
 少し日本を離れている間に、日本は心であるはずのとかなり離れたことになっていた。必ず結婚
してからも2年に一回は帰っていたが、どんどんずれてきて、いつの間にか軍国になっていた。軍事国家
と言われれば思い出すのは解体されてしまったプロイセンのことだ。優しいギルベルトは、結局新しい ド
イツの一部になった。それでも幸せだと言っていた彼のことを思い出すと、少し涙が出る。

 ヨーロッパに初めて訪れた時に最初にに自己紹介をしてくれたのは彼だった。





「ギルベルトさんは元気ですか?」

「あ?知らねぇよ。最近ドイツもきな臭いからな。わからね。」





 アーサーはかりかりと頭を掻いてから、綺麗なカップを持ち上げて紅茶を飲む。料理が下手な彼だけ
れど、紅茶を入れるのだけは上手だ。スコーンはいつの間にか彼が焼くよりも、が焼く方が上手に
なってしまった。





「気を、つけてくださいね。なんだか物騒になってきていますからね。」

「そりゃこっちの科白だ。情勢が安定しねぇのは中国がお隣の日本も一緒だろ。おまえもくれぐれも気
をつけろ。もしも何かあればすぐに戻って来いよ。」





 アーサーが真剣な眼差しで言う。

 元々男であり、国そのものであるアーサーと思想でそう言った物から遠ざけて育てられたでは政
治や国家間の知識が違う。要するには政治や軍政や、国家間のことを何も知らない。今まで菊が
危 ないからとそう言う事が起こるとすぐに遠ざけてしまっていた。おかげでろくに知らないのだ。


 ギルベルトに呆れられたことも数多くある。

 はアーサーの言葉に少し驚きながらも、何もないふりを装う。





「アーサー、」

「ん?」




 アーサーはの焼いたスコーンを口にくわえたまま振り向く。スコーンが頬に入っているのか、頬
が膨らんで、リスの頬袋のようだ。

 その間抜けな表情に、は思わず笑ってしまった。





「ぷっ、」

「なんだよ。文句あんのか?うまいんだよ。」




 少し顔を赤くして、ぎろりと睨む彼は自分よりずっと年上には見えなかった。





「あんまり甘い物ばっかり食べ過ぎると太っちゃいますよ。」

「おまえの作るスコーンが美味しいのが悪いんだよ。」

「あら、じゃあ私が帰っている間にやせますか?」





 笑って尋ねると、答えに窮して彼は「そうだよ。」と自信ありげに頷いた。意味が分からない。きっ
がいなくてもたくさん食べるだろうに。





「期待してますよ。」





 笑って、は荷物をしめる。すると後ろからぎゅっと抱きしめられた。





「早く帰ってこねえと、本当にがりがりになってるかも。」




 温かい強い腕に身を委ねながら、その言葉を聞く。は後ろから抱きしめられたことに感謝した。
今だって泣きそうなのだ。表情を見られていたら、泣きそうに歪んでいて、どうしたんだと尋ねられて
しまうだろう。帰るのを止められるかも知れない。


 そうなれば、菊が1人になってしまう。だから、帰らなくてはいけないから。





「もう。ちゃんと私がいなくてもご飯。食べてくださいよ。」





 彼の腕に寄り添うようにして、は目を閉じる。この温もりから離れたくない。忘れたくはない。
此処にいたい。でもいられない。泣きそうになって、懸命に唇を噛む。

 今、今を思え。この瞬間は、幸せでしょう?





「菊に、やきそうだよ。」

「もぅ、そういうことばっかり。菊は私のお兄さんですよ。」

「わかってっけどさ。」





 はぁーとアーサーは後ろからの肩に顎を置いてため息をつく。一瞬、ぽたりと何かが頬に落ちて
きた。涙かと思ってみたが目元は見えない。でも、の口元は笑っていた。

 雨漏りか、それとも妖精達の悪戯か、

 どちらでもいいやとアーサーは強くを後ろから抱きしめ、感触を楽しむように肩に顔を埋める。


 は微笑んでいた。泣きながら、笑っていた。












御免ねって泣きたかったね(それが誰かを傷つけるだけの行為であっても それでも あの時 涙を零 せる選択肢が欲しかったね)