『少し、日本に帰ります。』



 そう短い言葉を残して、彼女は去っていった。柔らかなほほえみと共に。

 特別な言葉もなくまた会えると思っていた。彼女は自分の妻である。兄である菊が恋しくて彼に会う
ために日本に帰るのは珍しいことではなかった。どうせすぐに戻ってくるだろう。ただの里帰りだと。


 軍縮会議の後から、徐々に事態は悪化していった。協調路線であった日本はいつしか列強に対抗する
ようになった。彼女は何かと理由をつけてイギリスへ帰るのを延期した。雲行きはどんどん怪しくなり 日本
は巨大化する新興国と手を組み、第二次世界大戦が勃発。彼女の兄である日本も日中戦争、太平 洋戦
争を始め、彼女を国民達の意志を統一するのに利用した。


 天照大御神、


 彼女はその神そのものだった。いつしか指導者達はかつての神の系譜を旗印に、国民を使った。彼女
が悪いのではなかった。元々彼女はあの国の皇族の思想そのものであり、元々あったが開国以降に高ま
った神道そのものでもあった。そう言った風潮を彼女は困ったような顔で話していた。

 長らく表舞台に出ることもなく、祖母に育てられ、突然明治になってあり方を変えるために引っ張り
出された彼女が浮かべたのは戸惑いだけだった。



 そして自分が争いに使われるなんて、彼女も、自分も考えたこともなかった。


 日本そのものである本田菊と、日本の成り立ちそのものである妹の本田。2人はどこまでも仲の良
い兄妹であったし、日本は文化的に男性優位の風習もあり、菊が無理強いするわけではないが、
いつも菊の決定に背いたりはしなかった。自分に対しても多くの場合はそうだった。





「大変だよ。アーサー!!」





 戦争が始まって早幾年か。ある日、アルフレッドがアーサーの部屋に駆け込んできた。






「なんだ、騒々しい。」





 アーサーは大きなため息をついて、でかい弟を見やる。

 先日、硫黄島も落ちた。戦争も佳境に突入し、全てが終わるのも遠い未来のことではないだろう。日
本も、もうすぐ敗北する。目算が立っているというのに、何をこんなに焦ることがあるのか。


 何年たってもうるさいと呆れて息を吐いたが、次の瞬間アーサーは呆然とした。





「硫黄島で、が保護されたんだ!!」

「硫黄島だと?」





 アーサーは目を丸くして彼の言葉を反芻した。

 米英軍死者数多。水すらも手に入りにくい過酷なあの島に立てこもって地下道を掘った日本軍の奮戦
は恐るべき物だった。日本への本土上陸を目指していたアーサーとアルフレッドが作戦を変えなければ
ならなくなるほど、こちらの軍を底冷えさせるほどの抵抗だった。日本軍のほとんどが最後まで戦い、 死
んだ。





「無事なのか?!」

「え、っと。無事って言ったら無事だけど、無事じゃないって言ったら無事じゃないぞ。」

「どっちなんだよ!わかるか!!」 





 中途半端な言い方に、苛立ちすら覚える。するとアルフレッドは本当に困ったような顔をした。




「怪我してるんだ。重傷だぞ。ってか、ひとまず峠は脱したが、意識朦朧。怪我から来る高熱でな。」

「…おまえが無茶苦茶するから。」





 アーサーは表情を歪める。

 大規模な火器を投入したのは、アメリカだ。硫黄島を落とすためには必要なことだった。これは戦争
だと分かっている。だから仕方のないことだが、彼女を傷つけたという事実を、どうしても認めること が
出来なかった。





「違うよ。ちょっとは火傷もあるけど、一番大きい傷は、俺じゃないよ。」




 心外だとでも言うように、アルフレッドが頬を膨らませる。





「自分の刀で、胸を一突きして、倒れてたんだ。」

「なに?なんで、」




 アーサーは呆然とする。

 彼女に、生きる意志はなかったというのか。自分は彼女のことを思って早く戦争が終わるようにと
生き残れるようにと戦ったというのに、彼女は命を諦めた。戦争さえ終われば、元ののんびりした夫
婦に戻れると思っていた。なのに、生きて自分に会うことではなく、死を願ったというのか。





「日本人らしいと言えば、日本人らしいだろ。」





 生きて虜囚の辱めを受けず。

 アルフレッドの言葉は、日本人の精神性を表していた。


 日本兵が捕虜になるのは、人数の割に少ない。それは日本人の精神上、虜囚になるよりも自害を選ぶ
傾向にあるからだ。こちらとて国際法に基づいて捕虜を扱うつもりでいるが、捕虜になること自体を恥 とす
る文化を持つ彼らにとってそれ自体が屈辱なのだ。


 その精神を最初にアーサーに語ったのは、だった。知っていたはずなのに、それが軍隊の隅々ま
で浸透しているなどとは、想像も出来なかった。だがよく考えれば当然だったのかも知れない。女であ
り、蝶よ花よ、神の化身だと神社という聖域の中で育てられたが知っているのだ。兵士達が知らぬ
はずもなかった。





「彼女が出てきたって事は、日本も限界だろう。」





 アルフレッドは目を伏せる。

 象徴的な存在であるが戦線――表に出てきたと言うことは、日本自身である菊ももう動ける状態
ではないと言うことを示している。





「栄養状態も悪いし、餓死寸前、その上に胸を貫いてたから、保護されてから二日たっているらしいけ
ど、まだ高熱が下がらないらしい。」






 アルフレッドとて、日本とは敵同士であるが、に対しては優しい。それは戦いという決断をおそ
らくがしたのではなく、彼女が命令に従い、精一杯のことをなした結果であることを理解している
からだ。





「あげる。」





 アルフレッドはアーサーに一振りの刀を渡す。





「これも戦利品か。良い品だな。」





 刀に関しては初心者であるアーサーにも立派な物であると分かる。柄の部分には金色の菊が彫り込ま
れている。





「そうだ。が持っていた物だ。」





 そして、の胸を突いた、刀でもある。

 ぎゅっとアーサーは刀を握りしめる。白銀の刃には彼女の緋色の血がついているというのだろうか。
きらりと、菊の紋章が光る。



『国旗の日の丸は天照を、紋章の花は菊を表してるんですよ』



 と、菊。それが日本を守る二つの要だと彼女は笑っていた。だからこそ彼女は戦場にこの菊と共
にたったのだ。例えそれが、死に繋がるかも知れないと知っていても。菊を失うくらいならば、共に滅 び
たいと。





「なんで、」





 アーサーは刀を握りつぶすほどの勢いで、拳を握る。壊れてしまえばいい。こんな刀。そう思っても
鉄で出来た質の良い日本の刀は曲がることすら知らない。

 自分は何があっても生き残って彼女と会うことを望んでいたのに。それは自分だけだったのか。





「ひとまず、はあげる。俺の女じゃないし、俺が持ってても仕方ないし、だからといって日本に帰
すわけにはいかない。アーサーの奥さんだから、こっちも手出せない。」





 アルフレッドは酷なことをはっきりと言う。

 戦争は終わったわけではない。国である日本の精神と密接に結びついているを国に帰すことは出
来ない。





「本当は聞き出して欲しいことはいっぱいあるんだけど…」

「聞き出すさ。」





 の体調を気にしてか、気遣わしげなアルフレッドの言葉を遮って、アーサーは翡翠の瞳を鋭く細
める。

 彼女の心を捕えるものなど、いらない。






「徹底的に、やってやる。」

「ドイツ戦線は大丈夫なのか?」

「もうすぐ攻略できる。」





 アーサーは答えて、彼女の胸を突いた刀を窓の外から放り投げる。

 彼女がつなぎ止められる物など、すべて壊れてしまえばいい。自分以外、何もかも。
















捨てられないものは何ですか(君が守ろうとしているものは何ですか)