医療器具がたくさん置かれる軍の病院の一室に彼女は入院させられていた。警備は厳しい。戦争捕虜
のための入院場所だが、彼女がいたのは一際美しい一室だった。
明日、アーサーの屋敷に彼女は輸送されることになった。医療器具も一式共に輸送する。彼女は戦利
品だから、アーサーが自由にして良いとアルフレッドが言っていた。もとより他の国は彼女に興味はあ
っても用はない。まして元々アーサーが日英同盟の締結と共に結婚したのだ。フランスなども仲は良か
ったが、特にフランスなどは自分の国の方に必死でそれどころではなかった。一番仲の良かったプロイ
センとドイツは、こちらからは連絡がとりようもない。
アーサーはベッドの上に身を横たえている青白い彼女の頬をそっと撫でる。よく知る体温は少し前よ
りも低かった。
久々に会う彼女は一見しても同じ人間だとは思えない程やせ細っていた。昔触れた柔らかな肌は傷だ
らけで、かさぶたが出来ているところもあれば真新しい傷も見える。何よりも大きいのは何針も縫った
と
いう胸の傷だった。肺にまで優に達するその傷は、あともう少し処置が遅ければ彼女の命を奪ってい
た
だろうと医師は表情を歪めた。
を助けたのは、1人の将校の男だった。イギリス軍でも、アメリカ軍でもない。日本軍の将校
でも
う日本の敗北を予想しており、だからこそ、これから未来を担うことすら出来る彼女の死を受け
入れ
たくなかったのだ。誰でも良いから助けてくれと叫んだ彼の声に、英米軍が気付いた。彼の決断
が
な
ければ、近くに英米軍がいなければ、彼女は死んでいた。そして将校の男が助けなければ彼女
はきっと。
『申し訳ございません!』
彼女を助けた日本軍の将校は、声を掛けたアーサーに泣いてそう言った。それは彼女を守れなかった
事への謝罪なのか、彼女の意志に反した事への謝罪なのか、それとも母国へか。どちらでも、アーサー
にとっては良かった。
『ありがとう、』
を彼が助けたという事実には、変わりはなかった。そして、が生よりも死を願った事実も。
「はっ、」
彼女が苦しそうに喘ぐのは、熱が高いせいだという。彼女の寝かされたベッドに座って、彼女の額に
手をやると、酷く熱かった。熱が下がらないのは、怪我の傷のせいもあると医者は言っていた。点滴も
しているのだが、栄養状態も悪かったせいか、回復は遅い。
アーサーの手の感触を感じてか、うっすらと漆黒の瞳が開く。潤んで、膜を張った瞳。
「あ、さ、」
掠れた声が名前を呼ぶ。わかっているのかわかっていないのか、判別の着かない焦点の合わない瞳は
やせ細って骨ばかりになった手をアーサーに伸ばす。僅かに、淡く微笑む。
「ご、め、」
「話さなくて良い。」
火器と壕の熱で喉をやられたと聞いているから、話すのすら苦しいだろう。アーサーが言うと、本当
に淡くは笑って見せた。その表情は、自分の妻であった、穏やかに微笑んでいた頃と変わらない。
しかし次の瞬間には表情が曇る。
「き、く、」
乾いた唇から零れた名前に、アーサーは眉を寄せる。の膜の掛かっていた瞳が急速に焦点を結び
痛むはずの頭を持ち上げて、誰かを捜す。
「き、」
かふっと、のど元で空気が弾けた音がして、苦しそうにが咳き込む。
「おい!」
安静にしろとアーサーは彼女の手を握る。しかし彼女はそれを振り払って、体を起こそうとする。傷
だらけの腕は自分の体重さえも支えることが出来ず、すぐに枕に突っ伏したが、彼女は諦めず、ぎゅっ
とシーツを握りしめる。当然だ、熱も高ければ、大怪我もしている。動かせる状態であれば、すぐにア
ーサーは自邸に彼女を送っていた。
「き、く、かえ、」
帰らなくちゃ、
声にならない呟きが零れて、くしゃりと表情を歪める。そしてまた起き上がろうとシーツに爪を立て
る。
「やめろ!傷が開くだろうが!!」
アーサーは叫んで彼女をベッドに押さえ込む。弱った彼女はそれでも懸命に身を捩ったが、痛みに悲
鳴を上げた。胸元に緋色が宿る。傷が開いたのだろう。近くにいたイギリス兵が慌てて医者を呼びに行
く。
「き、くぅ、」
漆黒の瞳がぽろりと涙をこぼす。
帰らなくちゃ、菊、菊、とはそれを魘されるように何度も呟いて、何とか体を起こそうとする。
傷があるので強く押えるのは難しいが、アーサーは怪我をしていない彼女の手をベッドの上に押さえ
込
む。それでも、彼女は抵抗した。
医者がやってきて、彼女の痛々しい程細い腕につぷりと注射の針を刺す。物の数秒で、彼女の体から
力が抜けた。しばらくすると、彼女の唇から寝息が零れる。強い痛み止めと、睡眠薬だったようだ。
「駄目ですね。」
若い医者が悩ましげに息を吐いた。
「少し目が覚めると、帰ると言い出すんです。」
ここはイギリスなのに。海を渡っても、まだまだ日本には帰れないのに、そんなこと、彼女の頭の中
には存在しない。彼女は菊の元に返ろうとしている。夫である自分の元ではなく兄である日本の元に。
「いつもはほとんど眠ってもらっているんですが、今日はカークランド卿が来られるとお聞きしたので
薬をいれなかったんです、が・・・・・」
困ったような医者の言葉にアーサーはもうため息をつくしかなかった。
彼女はどうしてあれほど菊にこだわるのか。負けかかっている、挙げ句の果てにを前戦に出した
ような男だ。どうしてそれほどに帰らなければならないと思うのだ。死ななければと思うのだ。
自分ではない誰かに心を奪われて、これほど傷つく彼女など、見たくもない。いっそ殺してしまおう
か
とすら思う。今なら誰も文句を言わない。こんな戦利品の女1人、間違えて殺しても訴えられないだろ
う。
ましてやアーサーの妻だ。日本の妹なのだから、裏切ったも同然だ。それでも、手に掛けることが
出来
ないのが、惚れた弱み。
『アーサー、大好きですよ。』
バラ色の頬、白い肌、朗らかに笑った彼女は、どこにいったのか。
こんなに痩せて、肌は青白い。傷だらけ。一体何を間違ったらこんな事になるのだ。日本は彼女を大
切にしていたのではなかったのか。その心すら忘れるほどに、領土拡大が重要だったのか。
そして彼女は夫である自分を忘れるほどに、兄が大切だったのか。
「二度と渡さない、」
アーサーは奥歯をかみしめる。
彼女が望むから、日本に帰した。菊が彼女を大切に思っているから、そう信じていたから、敵であっ
ても彼女の故国だからとを帰したのに。
「き、く、」
喘ぐように、彼女がうっすらと目を開いて呟く。
小さな手がぴくりと動く。何を求めているのか、アーサーは分かっていた。でも、求める人間はここ
にはいない。代わりにアーサーがその手を取った。
「ぁ、」
弱々しい声を上げて、僅かに力がこもる。瞳には相変わらず力はない。しばらくすれば、その瞳も閉
ざされた。薬による深い眠りに誘われたらしい。
『追い詰められて、いらっしゃったんです。自分だけは日本と共に傷つき、もしも日本が生き残れない
ならば、代わりに死ななければならないと。』
を助けた将校は、涙ながらに言った。
昔、彼女はいつも菊にくっついていた。日本の影に隠れていた。まるで月と太陽のようだと思った。
彼女はあくまで天照大御神という思想であり、国のアイデンティティの象徴だった。太陽を旗印にす
る日本の。太陽の筈なのに、彼女はいつも日本の影に隠れていた。その彼女が表に出て、戦った。傷
つ
いた。
「苦しかったか。」
アーサーはそう言って彼女の頬を優しく撫でる。
薬が切れれば、彼女はまた菊を呼んだ。帰りたいと叫ぶ。それを押さえ込んで、あやす。薬が打たれ
る。彼女が眠る。また薬が切れる。菊を呼ぶ。
くるくると回る、螺旋から抜けられない。結局一晩、アーサーはそれを続けることになった。
掲げた手では何も 掴めない