ドイツが負けたと、聞いた時は胸が張り裂けそうだった。
「ギルベルトさん。ルートヴィヒさん。」
思わずそうつぶやいたのを聞いていたアーサーは非常に怒った顔をするけれど、はつぶやかずに
はいられなかった。これで本当に、菊は一人になってしまったんだと愕然とする。イタリアの敗北はす
で
に聞いていたから。
「で、だね。君にはたくさん聞きたいことがあるんだ。」
明るい笑顔でそういったアルフレッドは、残酷だった。
「だって早く戦争を終わってほしいでしょ。だから教えてほしい。」
諭すように言われても、言葉が口から出てこなかった。菊、菊と心の中で何度も長い間よりそってき
た兄の姿を思い出す。
鎖国していたし、はいつも祖母とともに神社にいたから、日本の中でも外に出なかった。そこを
たずねてくるのは、天照の血筋と、そして菊だけだった。天照の子孫たちはどんどん政治から遠ざけら
れていって、が生まれたころにはすでに武士という刀を持つ人たちの政治を握っていた。
『あなたが生まれたということは、この国も変わり行くのですね。』
本当に寂しそうに笑って、祖母はいつもの漆黒の髪をなでては微笑んでいた。
『ほぉら、舶来もののオルゴールですよ。』
神社以外の日本を知らず、海外を知らず、引っ込み思案で不安で。そんなを守り、いつも受け入
れてくれたのは、菊だった。だから彼が戦争をしたとき、彼の元に帰って、彼とともにいようと思った
の
だ。心が国から離れてはならないからと。
がさまざまなことを話せば、確かに戦争は速く終わるのかもしれない。最近ひどく体調を崩して
いて、それでも戦っていた。その彼に鞭打つことができるだろうか。できようはずもない。
「教えません。」
「。」
厳しい声音でアーサーが名前を呼ぶ。それでも、たとえアーサーの願いであったとしても、何も言う
ことはできない。
「日本が遅かれ早かれ負けることはわかってるよね。」
アルフレッドはの反応も予想済みだったのか、冷静な反応を返す。
「・・・・多分、わかりました。」
資源の備蓄もなく、海外拠点のほとんどがアメリカとイギリスにおとされた今、日本が負けるのは遠
くない未来だ。そのデータと情報を見せられたのは、つい先ほどのことだ。物を知らぬでも、情況
が好転する見込みもないことはわかった。
「ふーん。君が話さなかったら負けた時に、菊を殺すって言っても、話さない?」
「・・・・!」
は答えに急を要した。アルフレッドの性格はわかっている。彼は非常に交渉上手なところがある
し、手段を選ばない。だから今の質問だってその一環だろう。
どうすればいいのか。
はうつむいて一生懸命考えるが、分が悪すぎる。
アメリカもイギリスも、今まで世界を相手に勝ち進んできて、列強の中でも1.2を争う地位にいる。そ
の彼らを相手に、引きこもりで物知らず、開国して100年そこそこの国であるがかなうはずもない。
特に技術は入れられるが、精神性や交渉術の蓄積はないのだ。単純な駆け引きは、アーサーやアル
フレッドの方がはるかに上だった。
菊はいったいどうやって、この列強たち相手に条約を改正し、戦争まで仕掛け、深手を負わせたのだ
ろう。今になって菊の苦労が身にしみる。
いつもいつも菊に重荷ばかり背負わせて、結局愛してくれるアーサーの手を振り払って菊の元に帰
ったのに、菊も傷つけて、死のうとしても死にきれず、こんなところで捕まって脅されている。なんて自
分は馬鹿で物知らずで、よわっちいのだろう。
菊にしてあげられることは、なんだろう。
『どちらがかけても、駄目なのですよ。』
祖母はそう言って菊につれられて神社を出て行くを見送った。その言葉はいつもの支えで
あり戒めだった。一緒に歩んできた、やさしい菊。弱いを悪態ひとつつかずに守ってくれていた。
「私、は、教えません。」
は結局アルフレッドとアーサーの顔を見上げ、言った。
「教えません。ごめんなさい。」
「それで菊が死んでも?」
眼鏡の奥の冷たい瞳が、に問う。アルフレッドは本気なのかもしれない。それはも思ったけ
れど、答えは一緒だった。
「はい。」
はうなずく。やはり、何も教えられない。
「そのかわり、私も一緒に逝きます。」
淡く笑う。どちらが欠けても駄目なのだと、自分でも思う。祖母の言葉だからではない。いつも自分
が不安でも助けてくれた、庇ってくれた。だから自分も、そうであらなければならない。
「私、の、責任だから。」
俯いて、顔を手で覆う。菊を守って上げられなかった。守ってあげるつもりだったのに、逆にこの気
持
ちが菊を傷つけた。は天照の化身だからと神だからと大丈夫と、兵士たちはみな去っていった。
もう手の届かないところに行ってしまった。その責任は、心である自分にある。
だったら、罰を受けるならば自分も一緒だ。
が死ぬなんてと嘆くアーサーには悪いけれど、やはり自分は死ななくてはならない。
「君は、アーサーの奥さんじゃなかったの?」
アルフレッドが背の低いと目線を合わせるためにひざをつく。
は肩を震わせた。はっきりとたずねられたのは初めてで、どう答えていいのか戸惑うけれど、そ
れでもうなずく以外の答えはなかった。自分はアーサーと結婚した。その契約は、今でも変わっていな
い。敵同士であっても。
「それで、も、わた、し、は。」
菊を捨てられない。アーサーは大切で大切で、本当にいとおしくて、たまらないくらい好きだけれど
菊
を捨てられるのかといわれれば無理だ。心が拒絶する。自分と一心同体である菊を見捨てるなんて
と。
「アーサーも君にそうしてほしかったって言う気持ち、わかる?」
アルフレッドに言われて、アーサーの方を振り向く。
ドイツに攻められて、確かに本土上陸まではされなかったが、それでも攻められて傷を負ったのはイ
ギリスだって一緒だ。なのに菊が危ないからと、は日本に帰ってしまったのでそこまで気が回らな
かった。
第一次大戦のとき、自国民が殺されていくことにアーサーはとても衝撃を受けて、泣いていたことす
らあった。今だって同じであったのではないのだろうか。
「今、傷ついてるのも、わかるな。」
アルフレッドは確認するように言って、の頭をくしゃりとなでる。顔を覗き込まれているから、
ぼろぼろと涙が零れ落ちているのも見られているだろう。
「でも、わた、わたし、」
「うん。教えてくれないのは、なんとなくわかってた。」
アルフレッドは困ったように笑う。
「日本人は潔すぎるね。すぐに死のうとする。駄目だぞ。最後まで生にしがみつかないと。」
の額にでこピンを食らわせて、アルフレッドはくるりとアーサーの方を向いた。
「ひどいことして聞きださなくてもいいぞ。どうせはそんなに知らないってあてにしてなかったか
ら。」
「は?そうなのか?」
「だって、報告改ざんしてるって知ってたからな。」
アルフレッドは肩をすくめて見せる。
はそもそも硫黄島の件は知っていたが、それ以外の海外領土がどうなっているか、ほとんど知ら
なかった。要するに、戦争が続けられるようなうそを教えられていたのだ。
象徴的な立場であるもそうだが、おそらく日本の国王だってそうだろう。アルフレッドやアーサ
ー
などは長年の知識から、部下や上司のごまかしを見抜くことができただろうが、も菊も明治以前
は
ほとんど外に出ておらず、経験も浅い。見抜けなかったのだ。そしてそんなが知っている情報な
ん
ていうものは、少ない。おそらく隠している人間がいるはずだ。
状況は全てが全て終わったわけではないが、彼女の戦争は終わった。
「は、アーサーん家で、ちょっと休憩だぞ。」
アルフレッドが念を押すように「いいな。」という。
は泣きそうな顔で首を振ったが、反論は許されなかった。
彼女に愛され彼女を愛したいだけなの に