もともとはプロイセンであったギルベルトにあったのはドイツが降伏してから数日がたったある日の
ことだった。ロシアに連れて行かれることになったというギルベルトに、アーサーが好意であわせてく
れたのだ。
もともとギルベルトとは仲がよかった。一時はプロイセンにを預ける案が出たくらいには。
「元気か?」
手を上げて軽く挨拶をするギルベルトの姿は最後にあった時とちっとも変わっていない。それだけで
は泣きそうになった。
「元気じゃ、なさそうだな。」
「そんなことありません。」
あわてて首を振れば、相変わらずの豪快な笑みを浮かべて彼は声を上げて笑ってぐしゃぐしゃと
の頭を撫でた。アーサーが不快そうな顔をしているのは知っているだろうが、彼は気づいていても気
に
しない。彼はKYというよりもどちらかというと、気にしがちだが無視をする体質だった。
「怪我してんのか。」
ハイネックのドレスを着ているからだろう。ギルベルトは少し心配そうにたずねた。あちこちに傷が
あるため、心配かけまいと服を選んだつもりだったが、逆に心配をかけてしまったようだ。
「軽い、怪我だったので、すが」
「軽いねぇ。」
あわてて弁解したが、ギルベルトはその言葉を鼻で笑った。ごまかしても駄目そうだ。
「ま、俺も慢心創痍だったから人のこと言えねえな。」
「そうなんですか?」
「当たり前だろ。何んだかんだいってぎりぎりまで粘ったからな。」
困ったような顔でギルベルトは言う。
はギルベルトの向かい側にすわり、その隣にアーサーが座る。紅茶とスコーンが出されたのを見
て、ギルベルトは眉を寄せた。
「まさか、イギリスが作ったんじゃねぇな。」
「はっ、嫌だったら食うんじゃねぇよ。」
アーサーが不機嫌そのままにギルベルトをにらむ。
「あ、大丈夫ですよ。そのスコーンはわたしが作ったものなので。」
はあわててギルベルトに言った。
ナイフなどの切れるものは、自殺を恐れてか、アーサーは一切与えない。しかし、何もすることはな
いのが嫌で、スコーンを作るというアーサーを手伝ったのだ。彼が作ったスコーンはまったくといって
いいほど美味しそうではないし、食べれそうでもなかったが、が作った方は美味しそうだったの
で
ギルベルトにもと持ってきたのだ。
だから、食べれるはず。
「うん。うまいな。」
ギルベルトがジャムを豪快につけて貪り食う姿に少し安心する。自分が作ったお菓子を食べてほめて
くれるその姿は、昔の、穏やかだったころの光景を思い出させる。
ふたりでいてもアーサーも自分もさまざまな苦しみや悲しさを思い出してしまって、昔のように笑い
あう
ことはできない。戦中だというのも、自分が敵として日本に戻っていたというのもある。仕方がな
いこ
とだが、重い空気に耐えかねていたのだ。幸せだったころと同じように笑うギルベルトはどこかで
の心の救いだった。
胸元をこぶしで握り締めたまま安堵の息を吐いて顔を上げると、ギルベルトと目が合った。
「しけた面だな。」
遠慮なく、ギルベルトは言う。彼は粗暴なところがあるが、非常に勘が鋭い。
「なんだ。旦那んとこに戻ったってのに。」
「いえ、そんな、ことは。」
「日本が気になってんのか、旦那と、うまくいってねぇのか。・・・・どっちもか。」
しげしげとの表情を伺いながら言ってくるギルベルトは嫌なやつだ。それも本人の前ではっきり
と言わないでほしい。焦って心中でパニックになったが、どうしようもなかった。言葉は空気に溶けて
いく。
「いろいろはっきり言ったほうがいいんじゃねぇの?大和撫子とか言うけど、言ったほうが後腐れない
ぜ。」
ギルベルトの助言に、こぶしを握り締めたままはぼんやりと彼を見上げる。
「ま、次はロシアとアメリカが喧嘩をおっぱじめそうだからな。どの国も日本にそんなひでぇ仕打ちは
しねぇよ。」
ギルベルトは慰めるでもなく、情勢をぺらぺらと話す。理解して、戦っていたのだ。彼も。否、それ
が普通なのだ。アーサーも、アルフレッドも、きっと菊も知ってる。全部知って、戦った。そして負け
たらどうなるか、勝ったらどうなるかも。
「私、なにも、わかってなかったんです、」
ぽつりとはつぶやく。言い訳でしかないとわかりながらも、言わずにはいられなかった、ただ聞
いてほしかった。取り返しにつかないことをしてしまったから。
「足りませんでした。なに、も、かも、私では、不足だった、」
涙が零れ落ちてきて、俯いたままはぐっと唇をかんだ。
祖母はに新しい日本を担う思想となりなさいと自分ではなくを外に送り出した。なのに
は人々の心を愛国心と軍国主義にあおっただけで、戦局も、政局も理解できていなかった。知らず
に
国を恐ろしい方向に進めてしまった。
ただ、勝ったらも負けたらも考えていなかった。菊が言うんだから、一緒に戦わなくちゃ。ただそれ
だけの気持ちで、戦った。人々をあおった。リスクも、勝ったらアーサーがどうなってしまうかとか、
負
けたら日本がどうなるかとか、そんなこと、何も考えずに戦っていたのだ。
「・・・・俺はおまえに初めてあったときに、賢くなれよと言っただろ。」
「聞きました。なのに、わたし、英語、おぼえて、かしこ、く、」
ギルベルトに初めて会った時、彼は強くなれ、賢くなれといった。おまえにもできると。
賢くなったと勘違いして、知ることをしなかった。現実の何もきちんと考えられていなくて、何も認
められていなかった。
アメリカから、日本とドイツがたくさんのひどいことをしたと聞いた。戦争だからたくさんの人が死
ぬのは仕方のないことだけれど、それ以上にひどい事をしたと。ギルベルトはそのひどい事を知
って
いた。知っていて従った。自分は知らなかった。神風も何もかも知らなかったけれど、煽った。
無知は罪だ。深すぎる罪だ。菊すらも傷つけた。
「消えて、しまいたい、」
自分の罪も利用されていた思想も、それごと、世界から消えてしまいたい。生きながらえるのはあま
りにつらすぎると、思う。
生きて虜囚の辱めを受けず。
それは日本軍の原則だ。日本の思想である自分がその辱めを受けていることが恥ずかしくて、情けな
くて、こんな思いをするならば、滅んでしまいたい。
「くどいやつだな。いい加減にしろ。」
ギルベルトとのやり取りを聞いていたアーサーが声を荒げて言った。でも、の本心だった。
ギルベルトは怒りもせず、ただ静かにの言葉を聞いていた。そしてべしりとの頭を平手でた
たいた。突然のことに、は呆然とギルベルトの方を見る。やられたこととは裏腹に、ギルベルトの
目はひどく優しかった。
「誰も望んでねぇのに、勝手な妄想で死んでんじゃねぇよ。」
「え?」
「日本人の誰かがおまえに消えろって言ったのか。少なくともどんな思想であろうと、どんな神であろ
うとも、それを使うのは国民であって、おまえじゃない。おまえはただ、望まれて役目を果たしただけ
だ。」
という神様の考えを、勝手に自分たちの言いように当てはめて、使ったのは人間だ。彼女は確か
に煽ったかもしれないが、その無知すらも受け入れたのは国民なのだ。
「負けた後、菊がおまえまで死んだのを聞いて見ろ。絶望すら覚えるだろ。それを支えるのが、おまえ
じゃないのか。」
ギルベルトはぐしゃぐしゃとの髪がぼさぼさになるまで頭を撫でる。
そのしぐさは昔から変わっていない。
「また今度はベルリンに来いよ。ロシアから戻ったらすぐに案内してやるから。」
ギルベルトは明るい表情で笑う。
いつかこうして、笑える日が来るのだろうか。
はギルベルトの顔を見ながら、ぼんやりとそう思った。
赦されてはいけない気が した