椅子に座って、ぼんやりと宙を眺めながら、は考える。気づけばもう夕刻で、アーサーが帰
ってきてもおかしくない時間だった。

 中途半端に生きながらえた、この心と体はどうしたらいいのだろう。




「情けない。」





 こうして虜囚としてここにいることも、菊のためにしてあげられることがないことも、なんてみじめ
なんだろうと思う。しょんぼりとうなだれるしかない自分の情けなさには、吐き気すら覚えた。





「疲れたな、」





 アーサーも笑わなくなってしまった。仕方ないことだろう。は彼を裏切って故国にもどり、彼に 牙
をむいた。その経緯があるから、夫婦であっても笑ってくれないのも、仕方のないことだ。仕方のな い
ことだけれど、苦しい。さみしい。





「なんでこんなところにいるんだろ。」





 今の現状に耐えられないというのが、の正直な気持ちだった。

 アーサーは自殺未遂の凶器となりそうにないものは全てから遠ざけているが、例えば本だったり
という、どう見ても凶器には使えそうにないものだけは、暇つぶしにとたくさん置いて行ってくれた。 本を
読むような気分ではないからと言ったのだが、彼は一向に聞いてくれなかった。読まれていない本 だけ
が、山のように並んでいる。






「はろー!」





 突然ガチャガチャ鍵をあける音が聞こえて、明るい声が上がる。見ればアルフレッドがそこにいた。






「アルフレッドさん、どうして、」

「いやぁね、君が元気かなって思って。ってのは嘘で、こいつを連れに来たんだよ。」





 ずるずるとアルフレッドは何かを引きずっていた。見ればそれはアーサーだった。ひっと悲鳴をあげ
てから、はどうしたのだと慌てて駆け寄る。





「だ、大丈夫ですか、アーサー!」





 倒れ伏している彼を揺さぶると、ものすごいお酒の匂いがした。





「大丈夫だぞ。単なる酔っ払いだ。」






 アルフレッドは腰に手を当てて、困ったような、呆れたような顔をした。

 はアーサーをどうにかベッドの上に乗せようと、がんばって引きずる。さすがに175センチメート
ルもある彼を150そこそこのが移動するのは不可能ではあった。床は絨毯があるので滑りもよく て移
動できたけれど、ベッドにまでは引っ張り上げられない。すると、アルフレッドが手伝ってくれた。





「なんでこうも飲みすぎるんだろうなぁ、まったくもう。」

「あの、アルフレッドさんも飲んでたんじゃないんですか?」

「そうだよ?でもアーサーったらものすごくたくさん飲むんだもん。いい加減にしろよな。」





 少し怒っているようだ。あっけらかんとしたアルフレッドとしては珍しいなとは思う。アルフレ
ッドは少し乱暴にアーサーをベッドに放り投げ、近くの椅子に腰をおろした。





「そーいや、アーサーとうまくいってないんだって?」





 アルフレッドは本当に素直に尋ねる。ものすごい直球だなぁと、はちょっと焦りすら覚えたけれ
ど、黙り込む。

 確かに、彼の言う通りだ。お互いによそよそしくなっている。元には戻れないのかなとすら思うし、
そう思うこと自体が非常に申し訳なくて、それが態度に出ているのだろうと思う。






「そういやってプロイセンが好きなの?」






 突拍子もないアルフレッドの質問に、は目を丸くする。





「え、へ?どうしてギルベルトさんの話になるんですか?」

「だって、アーサーが言ってたから。仲が良いって。」






 アルフレッドが唇を尖らして言う。

 確かに、ギルベルトとは仲が良い。昔、日本は軍制をプロイセンにまねたこともあるし、何より
もギルベルトのあけっぴろげな性格は、確かにの望むところでもあった。それに彼はあけっぴろ
げ な割に思慮深い。を慮って発言を選んでくれる優しさもある。





「ギルベルトさんは、お兄ちゃんみたいな感じなんですよ。」






 アルフレッドに、は弁解する。

 がギルベルトに向けるのは、お兄ちゃんみたいな、菊に向ける感情とよく似ている。彼も同じの
ようで、アーサーと結婚するという時は菊とそっくりの反応をしていた。要するに「えー、嫁に行くの か
よ。」っていう感じである。






「ちょっと菊より厳しいお兄ちゃんですけど。」






 に菊は非常に甘い。本当に甘やかしまくって、正直の言うことを否定したことなんてほとん
どない。喧嘩も一度もない。しかし、ギルベルトは言うべきところはきちんと言う。叱るところはきち んと
叱るし、わがままは許さない。そこが菊とギルベルトの大きな違いだった。







「ふぅん。まぁ、どっちだっていいんだけどさ。俺にとっては。あいつが不幸だとうれしいしね!」






 アルフレッドは全然興味ないと手を振る。じゃあなんで聞いたのだ、とは思ったが、わずかにア
ーサーの表情が動いていることには気づいていなかった。






はどうしたいの?」






 アルフレッドが手遊びをしながら尋ねる。





「日本に・・・」

「それは駄目。」







 帰りたいと言おうとしたがあっさりと遮られた。やっぱりそうですよねと思いながらは考える。







「・・・今は本当に、消えてしまいたいんですけどね。」






 ギルベルトにがいなくなった時菊を支える人がいないと言われたから、自殺未遂はしていない。
でも、菊が戦っているのに、彼が負けるのを待ち続ける間は、にとっては苦痛以外の何物でもなか
った。この情けなさもすべて抱えたまま、息絶えてしまいたい。そう思ってしまう。

 何がしたいかと、自分が何を望んでいるのかと聞かれれば、それが一番だった。もうどうしていいか
わからないのだ。どこに進めばいいのかも、何をすればいいのかも。






「うーん。難しいことはわからないな。」






 あははーとアルフレッドは困ったように笑う。





は、昔に戻りたくないの。」

「え?」

「楽しかったころに、戻りたくない?」





 みんなでばか騒ぎをして、戦争もなく、仲もよく、ただ寄り添いあうように楽しめた、あの頃。利害
とか国益とかそういったことではなくて、笑いあえた頃に、戻りたくないのかとアルフレッドは問う。






「戻りたいに、決まってるじゃないですか。」






 は即答した。


 小さな小競り合いをしながらも、笑って泣いて、菊も苦しくなくって、隣にはアーサーがいて、楽し
かったあのころに戻れるならば、戻りたい。





「じゃあ、戻ろうよ。」





 アルフレッドは突然立ち上がって近寄ってきたかと思うと、がしりとの手をつかむ。





「だーって、まだアーサー好きでしょ?」





 問われて、は一瞬目が点になり、顔に血が昇るのが、自分でもわかる。






「あれ?違うの、」

「ち、違いません。まだ、じゃなくて、私は、」






 そこで、言葉が詰まる。はしたないことを口にしようとしているなと思う。言ったほうがいいのだろ
うか。どうせアーサーは眠っているのだ。






「す、すき、ですよ。」





 はうつむく。いろいろあって、ぎこちなくなってしまったけれど好きなのは、変わっていない。
ぽたりと涙がこぼれおちる。好きだ。好きなのに離れなくちゃいけなくて、辛かった。悲しかった。さ
びしかった。今、彼に会えただけがうれしくて、ほかの悲しいことばかりに目がいってしまって、見失
いかけていただけ。






「そういうこと、早く言えよ。」





 べしりと後ろから頭をたたかれ、振り向いてみると、そこには不機嫌な顔のアーサーが座っていた。






「きゃっ、え、ぇ、」






 それでなくとも顔に血が上っていたのに、もっと上昇して、パニックになる。どうしようどうしよう
とそればかりを頭の中で反芻していると、今度は横から抱きつかれた。





「よーし、昔みたいに抱きついてみよう!」





 アルフレッドが変な意気込みを持って、ぎゅうっとに抱きつく。






「てめぇ!」






 アーサーがアルフレッドを引きはがそうと苦心する。

 その姿を見ながら、本当に久方ぶりには笑みを浮かべた。






あなたを求めて命が鳴いています