『ひっ、おおきいひと、こわい、』




 ぐすぐすと手で涙を拭きながら、泣く。拭いた後からたくさんの涙が溢れてくる。膝を折りたたんで
小さくなる。もう何も見たくないし、聞きたくない。酷いことばかりだ。





『どうしたんですか。そんな押し入れの中に隠れて。』





 困ったような声が振ってくる。見上げるとそこには、自分とよく似た面立ちの彼がいた。





『だって、みんな、わた、し、いじめる。いや、もぅ、おおきい、ひと、おいだそぅ、よ。』





 泣きながら言うと、ますます彼は困ったような顔をした。

 前みたいにひとりで暮らした方がきっと怖くない。酷いこともされない。もう嫌だと泣くと、そっと
頭を撫でられた。






『私が、がんばりますから。』





 優しく抱きしめられて、何度も頭を撫でられる。






『貴方が隠れている間に、私が頑張りますから。』






 ね、と。泣くの目尻の涙を、そっと拭ってくれる。






『貴方が、出てこれるように。』






 優しい優しい菊。

 いつもいつも甘えてばかりの

 どんなに泣いても、喚いても、菊は怒らない。仕方ないですね、って笑って、自分が頑張るから、も
う少し待ってくれと言う。彼はいつもに甘い。本当に大切に大切にしてくれる。


 白い軍服が翻る。白地に緋色の旗が翻る。

 だから、世界の誰もが敵に回っても、自分だけは、味方でいようと思った。彼が自分にそうしてくれ
たように、自分も。






「まって、」






 菊、と手を伸ばしたが、天井はたくさんの絵で埋め尽くされている。金の縁取りが入った彫刻は明ら
かに此処が日本ではないことを示す。

 は身を起こす。裸の体にはぶかぶかのバスローブが適当に着せられていて、体を起こせば肩か
ら 襟元がずり落ちる。体はあちこち軋んでいるが体調も悪くない。ぼんやりと周りを見ているとぽたぽた
と涙が鎖骨まで滑り落ちる。

 あぁ、泣いているのか。





「飯持ってきたぞ?」





 しばらくそのまま涙を拭くこともせずに呆然としていると、アーサーが部屋に入ってきた。






「うわっ!どうしたんだおまえ。」






 宙を見つめてただ涙をこぼすに驚いて、アーサーは慌てた様子を見せた。はゆっくりとアーサー
に目を向ける。その拍子に涙がこぼれ落ちた。







「ぁ、あさ?」

「いや、もう昼だけどな。どうしたんだ、また怖い夢でも見たのか。」





 アーサーはつかつかとベッドの方に歩み寄って、自分の袖でごしごしとの目尻を拭う。はさ
れるがままになった。昔、自分の袖で涙を拭くと、菊に汚れるからとハンカチで拭かれた記憶がよみが
えって、ますます泣きたくなった。





「落ち着いたら、飯食おう。」





 アーサーはサイドテーブルに置いた食事を見る。は素直に頷いた。大人しいに、アーサーは
ほっとする。

 プロイセンのギルベルトに会わせてもらってから、は比較的落ち着いていた。逃亡未遂は相変わ
らずだが、自殺未遂は影を潜め、パニックになって叫ぶこともなくなった。帰りたいと無意味に嘆くこ とも
少なくなった。ギルベルトに会わせること自体は実は反対だったが、良い影響を受けてくれたよう だ。


 が笑うことはない。ギルベルトの言うとおり、自分とうまくいっていないことも、不安なのかも 知れな
い。元々あまり自分の心情を言わず、うちに閉じこもる癖がある。こちらとしても、勝手に母国 に帰った
妻をどうすれば良いのか、困っていた。愛情がないわけではない。ただ経緯が経緯だけに、ど うすれば
良いのかわからないのだ。


 先に無理矢理抱いてしまったため、夜になれば体は重ねる。まぁあまり長いことすれば別だが、それ
以外は最初は拒んでいたも今は拒まない。ただ、それだけだ。愛の言葉もない。快楽をむさぼりあ
うだけ。





「体は、大丈夫か?」





 昨日も多少酷くしたかも知れない。心配になって尋ねると、は漆黒の瞳を瞬かせた。






「あ、はい・・・・大丈夫です。」





 顔をまっ赤にして、は頷く。昔から、彼女はそう言う性的なことを直接言われると、酷く恥ずか
しそうに頬を染める。文化的に、そういうことがオープンではないところに育っているからで、人前で
キスをした時は、しばらく外に出たくないとまで言われた。






「何の夢を、見てたんだ?」

「・・・・、小さい頃の、夢です。」






 はおずおずと言う。最近菊のことをアーサーが聞くのを嫌がることは、彼女も分かっている。だ
から、遠回しに言ったようだが、今日は何やら穏やかな気分で、聞いても大丈夫な気分だった。ベッド
に腰を下ろして、の肩を抱き寄せる。






「鎖国してた頃か?」

「いえ、開国してすぐの頃です。私、押し入れに閉じこもってたんです。」

「押し入れ?」

「クローゼットみたいなところです。こわくて、ずっと隠れたんです。」

「何が、」

「貴方たちが、」






 はぐすっと鼻をすする。





「だって、酷いことばっかり言うんですもん。」

「まぁ、否定しないけどな。」







 不平等条約を結んだりしたのは、イギリスを含むヨーロッパだ。アーサーは苦笑して、を抱きし
める。





「もう嫌だからもいっかい閉じこもろうって言ったら、菊、は隠れてて良いよって言うんです。」






 はぽたりとまた涙をこぼす。





「貴方が出てこれるように私が頑張るから、って。」





 それはアーサーでも笑ってしまうほど、菊らしい発言だった。

 菊はに非常に甘い。年の離れた妹であるからだろう。菊もずっと島国で1人だったから、が生
まれたと知った時はとても嬉しかったと言っていた。他国に蹂躙されそうになった苦しい時代も、
いたから乗り切れたと。





『1人では、決心はなかなかつかない物なんですよね。』





 困ったように言った彼は確かに妹を愛するだけの兄だった。

 アーサーだって心のどこかで知っている。彼とは切り離すことが出来ない存在だ。それだけは仕
方が無いことだと。





「・・・多分、あと少しで日本が降伏するぞ。」





 アーサーはそっとを宥めるように抱きしめる。は目を丸くして、ぽろぽろと涙をこぼした。





「きく、菊は、」

「安心しろ。菊はしばらくアルフレッドと俺が預かることになった。」





 に入っていないが、ドイツはロシアとアメリカによって東西に分割された。しかし日本は何とかr そ
れを免れそうだ。孤島だったのもあるし、アメリカの対応が早かったのもある。中国も内部事情の方 が
大変なので、日本に手を出すまでは出来そうにない。

 海外領土に関しては手放してもらうことになるが、日本は島国として、これからも独立的地位を築く
だろう。どこの属国でもなく。





「・・・・菊、怪我、してる?」





 涙を手で拭きながら、は尋ねる。





「多分な。今までにない程酷い怪我をしてるだろうな。」

「うぅ、ひっ、」

「また泣くー、」





 少し嫌な顔をしながら、それでもアーサーはを抱きしめる腕に力を込める。





「ひっ、ぁって、うれし、けど、かなし、て、」






 綺麗な顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくるはアーサーの肩に顔を埋める。

 すべてが、終わる。

 それが嬉しい始まりなのか、悲しい始まりなのか。


 戻れると、約束して欲しかった。














その無防備な優しさに心音委ねたいだなんて想うよ