『この子が生まれたということは、時代は変わりゆくのですね。』
困ったように、は言った。前の、だ。今のではない。菊とそっくりの赤ん坊を抱いた彼
女は、赤い鳥居の下で柔らかに、さびしげに言った。
『かわいいですね、』
妹などいたことがなかったから、菊は赤子にそっと手を伸ばした。ふにふにのほっぺと頼りない髪
の毛。ずっと自分より小さい。何も知らない赤子は笑う。まだ無邪気に。
『いつか、皇国と呼ばれる日が来るとき、この子は要となるでしょうね。』
『皇国、ですか?』
訳がわからず、を見上げると、しわだらけの顔で彼女は笑った。もう年をとっていて美しくはな
かったけれど、彼女の微笑みが温かくて菊は大好きだった。
『それはわたし、なのですか?』
『どうでしょうね。あなたとこの子がつながるもの、でしょう。』
『ではなく?』
柔らかに微笑む彼女に、菊は問いかけた。
元は巫女だった。のちに神になった、地母神。それが彼女だった。人は彼女のことを天照大神と呼ん
でいた。自分が生まれたころにはすでにいた人で、争いごとになったら隠れるためによく頼っていた。
あまりに国の中が争ってつらくなると、看病だってしてくれた。
菊はぎゅっとしわだらけの手を握った。今のではだめなのだろうか。尋ねると、彼女は首を振った。
『国や政治と分離されていた私は、いなくなるのです。代わりにあなたとそっくりのこの子が生まれた
意味を、間違ってはいけません。』
は言った。否、もうではないのかもしれない。彼女はいつしか光を失った。祖母として新た
なに寄り添い、そして、明治が始まる前に、
『おばあさまは、どこ、いったの?』
くるくるとした丸い漆黒の瞳が、こちらを見上げてくる。夕焼けの中手をつないで、二人。ふたりぼっ
ち。夕焼けの向こうの海には、黒い船が見える。変化の船だ、変革の波がすぐそこまで押し寄せて
いる。自分たちもいつか、押しつぶされてしまうかもしれない。
自分とそっくりな顔立ち、幼い自分とそっくりなたまに横柄で、でも控え目な物言い。これが新たな
だというのならば、それは何を指示しているのだろうか。皇国とは、が皇で、菊が国なのか。
それとも同じものなのか。それすらもよくわからなくなった。
『ここに、いますよ。』
も、ここにいる。ぎゅっと菊はの手をにぎりしめた。するとはにこりとかわいらしい笑
みを浮かべた。
『はい、菊、』
彼女は、逝ってしまった。でもここには彼女がいて、笑っている。彼女は怖がりで、よく泣くから、
自分
は彼女が怖がらずに済むくらい、強くなろうと思った。がいつも、笑ってくれるように。
と菊は同じものになった。一つになった。皇国になって、二人は一つに。でもいつしかそれは乖
離した。離れて行った。国がどんどん大きくなるにつれて、心が離れて行った。彼女が結婚したかとか
そういった理由ではない。心が、離れて行った。意識が、戦争が、そしてイギリスと日本という距離感
が、自分たちをどんどん離していった。
彼女はただ単に自分は象徴であると思っていた。何も考えずに心のよりどころだと思っていた。
菊は、彼女を力だと思っていた。国をまとめるための力だと思っていた。要するに利用したのだ。富
国強兵、領土拡張のために。
アーサーと結婚していたのに、戦争になると彼女は帰ってきた。菊と一緒にいると帰ってきた。乖離
していくのは感じられていたから、帰ってこないかと思っていた。安堵した、半身が返ってきたとひど
く
安堵をした。
『わたし、硫黄島に、いってきます、』
彼女がそう言いだしたのは、戦争の敗北が見えた1月もくれたころだった。ひどく疲れた顔をして、泣
きそうに表情をゆがめて言った。あんな激戦地に行くなんて何を言っているのだと憤ったが、彼女は行
ってしまって、戻ってはこなかった。
あとから、彼女が意味を理解していなかったことを知った。自分が旗印にされていたことや、精神の
か
なめにされているのは分かっていたが、それが人を死に導いたり、国を一色に染めたり、領土拡張の
原
因になったことを、イギリスにいて帰ってきたばかりだった彼女は、何一つわかっていなかったそう
だ。
戦争という概念すらも甘かったといっていた。彼女は全てを認めて戦争に手を貸したわけではなく
、何
も理解できていないから、国のためにと旗を振ったのだ。
硫黄島に赴任する予定だった将軍の一人がそれをに説明したのだという。彼の将軍もまた死ん
で
しまったのでその時臨席していた副官から話を聞いたのみで、わからなかった。どうして彼女が硫黄
島
へ行こうと思ったのか、何をしようと思ったのかも謎のまま。彼女はいなくなった。
それからさまざまなことがあって、原爆が落ちて、それからどうなったんだったか。うその報告がな
されていたことも、もう燃料の備蓄がないことも、どうすればいいか考えもつかなかった。戦争はもう
すぐ終わる。負ける。
それが理解できたのは、彼女がいなくなったからだった。
傷だらけで倒れて、その瞬間に思い出したのは、を神社から連れ出す日に、祖母が言った言葉だ
った。
『どちらが欠けても、だめなのですよ』
欠けてしまった、なくしてしまったんだ。
彼女は帰らない。はたぶん、死んでしまったのだろう。ほとんど捕虜になった兵士もいなかった
というくらい、ひどい場所だった。硫黄島は。
失ったものは戻らないと、言われていたのに、欠けては駄目だといわれたのに。
「菊、菊!!」
眩しい明りが目をついて、ぽたぽたと何か冷たいものが頬に落ちてくる。それがひどく傷に染みた。
何を泣いているのだ。また誰かにいじめられたのだろうか。
「どうしたんですか?が、怖く、な、ように、強、く」
痛みでうまく声が出ない。ほとんど吐息だけで問う。どうして泣いているのだろう。またどこかで怖
い思いをしたのだろうか。強くなるから、怖くなくなるように、強くなるから、泣かないで。
涙をぬぐってやろうとして、手が動かないことに気づく。ゆっくりと顔を横に向けると、不機嫌そう
なアーサーと、困ったように笑っているアルフレッドがいた。
「気づいた?日本。」
アルフレッドが尋ねる。
「アメリ、カ、さん、」
菊は押されるようにうなずいた。戦争相手で敵だったわけだが、彼はあまり変わらず元気だったよう
だ。
痛みで体は全く動かないが、目は覚めた。は菊を覗き込むようにしていたが、取り乱した自分が
恥ずかしかったのだろう、椅子に戻ってまたぼろぼろ泣きだした。その頭をアーサーが困ったように撫
でる。
「しばらく君は俺とイギリスの支配下に置くから、」
アルフレッドの言葉は無情であり、それでいて優しい響きを持っていた。菊は決定事項にどう答えて
良
いか分からず、に目を向ける。彼女は俯いたままで、西洋風の服の上にはぼろぼろと涙の粒がこ
ぼれ落ちて色を変える。
「いきて、いたの、ですか?」
「・・・・はい。恥ずか、し、ながら、私、」
顔を上げず、ひくりと細い肩が揺れる。生き残ってしまったことを本当に恥じているようだ。
「ごめ、んな、さい、」
は肩を震わせて子供の頃に戻ったように泣きじゃくる。もう、子供ではないだろうに。あっとい
う間に成長して姿は20歳前後までなったのに、泣きじゃくる姿は子供の頃と変わりない。
「よ、く、顔を、見せて、くださ、」
菊はに痛む手を伸ばす。はふらふらしている手に慌てて手を伸ばして支える。温かさが伝わ
って、菊は柔らかに微笑む。が目を丸くする。最近怖い顔ばかりしていたような気がするから、自
分
でも酷く不格好に笑った気がした。
「良かった、」
はき出すような、声で菊は呟く。
「ふぇ、ぇ、ええ、」
がますますぐしゃぐしゃの顔をして、菊に抱きつく。少し痛かったけれど、それでもその重みは
確かにだった。
誇り故の 喪失