きく、きく、
幼いは着物姿の彼を追う。その背中が白い軍服へとかわる。手には刀が握られ、鋭い視線
を
前に向けている。
てててとは彼を追う。途端石に躓いて、べちゃりとこけた。痛みに涙が出てきて、やりどこ
ろのない痛みと情けなさに声を上げて泣く。
前に鋭い目を向けていた彼は、すぐに振り返って、慌てたように駆け寄ってきた。
大丈夫ですか?怪我はないですか?あぁ、血が出ていますね。
困ったように目尻を下げて、びーびー泣くの頭を優しく撫でてくれた。白い綺麗な軍服が汚
れるのに膝をついて、の手に着いた泥を払って、落とした手鞠を拾い上げてに握らせる。
いつも、彼はに優しい。我が儘を言えば我が儘を聞いてくれる。彼は戦争からを遠ざけ
傷つけないように慈しみ、いつもいつも守ってきてくれた。どんどん日本が苦しくなっているの
は知っ
ていた。いつもは役に立てなかった。だから、今度は一番苦しい彼の傍にいたいと、い
よう
と思った。
それが、自分の愛した人とのお別れだとしても、
大切な彼への恩返しだと思った。だから決して菊が大事なのは、そうだけれど、アーサーを愛し
ていないとか、それとは別物だった。そのつもりだったのだ。
アルフレッドと仕事の打ち合わせをして帰ってきたアーサーは誰もいない部屋に衝撃を受ける。
昨晩酷く抱いたから、アーサーが出かけたときはまだ眠っていたはずだ。あれから何も話し
ていないし、酷いことをしたから、昔のように謝って、紅茶とスコーンでも片手にきちんと話をし
よう。
そう思っていたのに、帰ってきたら彼女がいない。
「なんだい?」
に会いたいとついてきたアルフレッドが部屋をのぞき込む。
「いない。」
「は?」
「いないんだよ!」
アーサーはアルフレッドに叫ぶ。
「菊の所でも行ったんじゃないかい?」
アルフレッドの方は冷静で、近くにいた士官に菊の軟禁されている屋敷に電話するように指示す
る。すぐに連絡して帰ってきた士官はアルフレッドに首を振った。
「いえ、いらっしゃっていないそうです。」
アーサーは呆然とした面持ちのまま、凍り付いた。
「んー。は今日、外に出たのかい?」
アルフレッドは士官に尋ねる。
この官舎はGHQのもので一応の処遇はアーサーの妻ということにはなっていたが、菊の妹
であるため、逃亡は心配していなかったが警戒をしていないわけではなかった。出入りの記録ぐら
いはあるはずだ。
「…そうですね、3時過ぎに出かけられたようです。」
士官はゲートの警備をしている兵士に電話をして聞いてから、答えた。
「3時、か。」
アルフレッドは少し考え込む。
今はもう5時だ。時間的に今から追いかけても捕まらないだろうから、目的地をまず探らなければ
ならない。仮に菊の家に行こうと思ったなら、徒歩で1時間だから、もうついている。要するに菊の
家に行くわけではないはずだ。
生憎此処は日本で、正直がどこに行くのが好きだったとか、どこに行く場所があるかとか、
そう言ったことはアルフレッドにも、おそらくアーサーにも分からないだろう。
「菊に聞くしか、ないぞ。」
アルフレッドは隣で俯いて項垂れているアーサーに言ったが、彼が聞いている様子はない。
「君、何かにしたのかい?また強姦まがいのことしたんじゃなかろうね。」
やっと日本との戦争が終わっても大人しくなったのだ。強姦まがいのことをする意味がわか
らない。やりたいことには率直だが分別はあるアルフレッドから考えれば、それをやればまた
との摩擦を産むだろう事は明白で、アーサーがそんな馬鹿なことをしたとは思いたくはなかったが
どうやらそうらいし。
「…」
アーサーは沈んだまま答えない。
「馬鹿じゃないのか。」
「うるせぇ、仕方ないだろ。」
「何でもめたんだい?」
一応アーサーの意見も聞こうじゃないかと、アルフレッドは腕を組む。アーサーはうっと怯んだ
が、息を吐いた。
「が、イギリスに帰らないって言うんだ。」
「…うーん。仕方ないんじゃないか?だって菊、あんなだし。」
アルフレッドからしてみればの答えは十分に予想できる物だった。
「菊もシスコンだけど、ってすっごいブラコンじゃないか。あんなぼろぼろになった菊を放置
してイギリスに行くのをはいそうですかとは言わないだろ。…まさかそんな事で強姦したんじゃ
な
いだろうね。」
「……」
弟の責めにアーサーはますます項垂れる。アルフレッドは大きなため息をつき、ぽんとアーサー
の背中を叩く。
「は菊と同じだ。思想だと最初は言っていたけれど、今は日本そのものだそうだ。自分の国か
ら離れたくない。それは俺達だって理解できる物だろう?」
「でも、俺はどうなるんだよ。」
夫で、恋人の筈なのに、いつもいつも彼女が言うのは菊ばかりだ。
「そんなんなら、菊と結婚すりゃ良かったんだ!」
「それ、に言ったのかい?」
ぐずぐず言い募るアーサーにアルフレッドが質問する。アルフレッドは子供っぽく見せているが
鋭いときがある。
「いや、言ってねぇ。…けど。」
「けど?」
「…結婚しなけりゃ良かったとは言った、けど。」
もう情けなくなってきて、アーサーは鼻をすする。アルフレッドは目を丸くして、がしりとアー
サーの襟元を掴む。
「馬鹿じゃないのかい!?君は!それ菊と結婚すりゃ良かったより最悪だよ?何で言ったの!!」
へこんでいるアーサーなんてお構いなしにアルフレッドはアーサーを揺さぶる。
正直、『菊と結婚すりゃ良かったんだ!』と言うのは完全にヤキモチだと分かるけれども、『結婚
しなけりゃ良かった』は、現状の結婚という状態を全否定した事になる。アーサーはむかつきつい
でに言った彼女に向けての言葉だろうが、聞いたはアーサーが自分との結婚を後悔している
と思った事だろう。
それは完全に崩壊の合図だ。
自分の言った言葉が大きな失言だと気がついたアーサーは顔を真っ青にして、泣きそうなほど表
情を歪めた。
「だって、俺、すっげぇ、ないがしろにされてる気がしたんだ…、あんま自分の気持ち、言わ
ない癖に自分の気持ちで動くし、」
三角座りをしてえぐえぐと泣くしかないアーサーに、アルフレッドは本当にため息しか出なかっ
た。
確かに彼の気持ちは分からなくもない。
戦争前になれば勝手に日本に帰られて敵同士になり、あげくには負けそうになったら自殺し
かけるわ、戦争が終わったら終わったでイギリスに帰らないと唸られる。
もともと自分の気持ちは言わない癖に芯が強くて自分の思うとおりに動く気のあるは、アー
サーと前から意思疎通が図れないときがあった。そう言うときはと仲の良いギルベルトを交い
して話すことが多かったが、生憎今ギルベルトはロシアだ。が話しやすい相手がいなかったの
だろう。
あげくアーサーも酷いことを言ったのだから、どっこいどっこいか。
「ひとまず、がどこにいるのかがわからないと、どうしようもないよ。菊に聞いてみよう。菊
ならの行きそうな場所を知ってるはずだぞ。」
アルフレッドは三角座りですねているアーサーをひとまず宥めて、士官に車を用意させる。
「本当に、仕方ない兄貴だな。まったく。」
腰に手を当てて、アルフレッドはアーサーを見下ろして小さく呟く。
それはアーサーには聞こえていなかった。
執着による破壊行動について