パブって階段から落ちただけだった、はずだった。





「はぁ、記憶退行…」





 は全く聞き慣れない言葉に首を傾げる。フランシスはアーサーに殴られたのか腹を押え
たままに説明した。






「あぁ、だからさ。海賊時代くらいに戻ってるらしいんだよな。記憶が、」

「それって、いつくらいですか?」

「えーっと…300年くらい前かなぁ…」





 フランシスは正確には思い出せない、と言うよりも思い出したくないと言った表情でそう言
って、ひくりと唇の端を引きつらせる。何か嫌な思い出でもあるのだろうか。それともアーサ
ーに殴られて相当痛かったのか。否、殴られるのはいつものことだから、大丈夫だろう。





「そうですねぇ、近いうちにルートヴィヒさんちのお医者様をお呼びしましょうか。」 





 はフランシスの話に現実的な見解を添えた。

 アーサーがパブの階段から足を踏み外して落ちたのはつい数日前のことだ。酔っぱらうのは
いつものことだし、くれぐれも気をつけるようには言っていたが、妻に弱いアーサーでもどうして
も酒だけはやめられないらしい。酔っぱらっても泣出したり喚く程度だから時がたつごと に
も慣れて放って置くようになった。まさか階段から落ちて記憶を失うだなんて、思いも し
ない。

 は慌てて救急車と家が近いフランシスを呼び、どうにか病院に運び看病をしていたのだ
が、彼の荷物を取りに戻っている間にアーサーは目を覚まし、何故かフランシスを殴りつけた
のだという。

 丁度海賊時代はフランスともあまり仲が良くなかったそうだ。今もあまりだが。





「…状況は話しておいたんだけど…混乱しているみたいだった…」





 フランシスは殴られた腹を押えながら息を吐く。かなり疲れているようで可哀想だった。






「混乱しているのは、仕方ないでしょうね。」






 はこくりと頷いて、アーサーの服やらが入った紙袋を抱きしめる。

 一応アーサーの上司達にはもう連絡してあって、1ヶ月は最近働きづめでストレスが溜まって
いたんだろうと何とか休みをくれたから、仕事はしばらく大丈夫だ。あとは彼の記憶が戻るかど
うかという問題だ。現実的な問題だけの、話だが。





「そんな不安そうな顔、しちゃだめだよ。」





 フランシスがあははと笑っての頭を撫でる。





「スマイルスマイル。」

「…はい。」





 は震える声で返事をした。ここで自分が不安になっても仕方が無いし、落ち着こうと心 がけ
た。

 自分が300年後の世界に飛ばされたことを考えれば、やはり不安だろう。彼が混乱するのは当
然だろうと思う。それなのに自分まで不安そうな顔をしていたら、気にされてしまう、とそこ まで考
えてはっとする。

 300年前はまだ生まれていない。まして日本は一部ヨーロッパの国とも貿易していたとは
聞くが、それでもあまり知られている国ではない。





「わたし、」






 彼の傍にいては駄目なのではないでしょうか、

 頭を撫でてくれるフランシスにそう問おうとした時、フランシスの顔を何かが横殴りに過ぎてい
って、フランシスが横の壁に顔を強打した。





「え、ぁ、えぇ!」





 はあまりの事態について行けずフランシスの隣に膝をつく。ぽろっとフランシスの頭から滑
り落ちたのは、病院の少し固い枕だった。フランシスのこめかみに当たったらしく、壁にぶつ
かったのも相まって、彼は頭を押えていた。

 は枕が飛んできた原点に目を向ける。いつの間にかアーサーがいるはずの病室の扉は開
いていて、アーサーが獰猛な笑みを浮かべて仁王立ちしていた。





「てめぇ、女と戯れてるとは良い度胸じゃねぇか。」





 予備の枕なのか、もう一つの枕を手で弄んでいる。





「お前!何するんだよ!!」

「何じゃねぇ。300年たってるだぁ?…てめぇの女癖はかわってねぇじゃねぇか、ざけんじゃね
ぇぞ。」






 そう言ってアーサーは枕をまたフランシスに投げつける。枕はまっすぐとフランシスの顔に
直撃して、ふぎゃ!という声を上げて彼が倒れ伏す。常々アーサーが言っていたとおり最近
のフランシスは弱い。戦いよりも農業の方がお得意だ。おかげで腕が鈍っているようだった。
避けられもしない。

 やくざか、欧米ではマフィアというのか、ひとまず酷い口調で言うアーサーにはフラン
シスを庇うのも忘れて硬直する。

 だが、そんなのお構いなしに、アーサーは床に膝をついているの腕を掴んでを立た
せると、無理矢理顎を掴んだ。喉に手が食い込む。痛いなと眉を寄せれば、翡翠の瞳と目があ
った。それがうっそりと細められる。





「…ほぉ、シナ人ね。珍しいじゃねぇか。」





 アーサーが歯を見せて笑って、ぺろりと舌で自分の唇を撫でる。





「ち、違いますっ、わたしは、日本じ、」






 彼の勘違いをただそうと声を上げると、ぐっとまた喉を掴まれた手に力が入って、喉に指が
食い込んだ。





「喋れなんて、言ってねぇよ。」






 吐き捨てるようにアーサーは言って、歪むの表情を見て、にたりと笑った。

 こんな粗暴な人、見たことない。があった時には既に紳士を装っていて、少なくとも女
性には優しかった彼だが、今の彼はどう考えても違いそうだ。

 神社育ちの日本のお嬢さんであるはすでに事態について行けそうではなかった。





「ちょっ、やめろよ、アーサー!なんぼおまえでも彼女はっ、」





 フランシスがやっと立ち直ったのか、喉を掴むアーサーの手をから引き離そうとする。
アーサーはそれが不快なのか、冷たい翡翠の瞳でフランシスを睨んだ。





「あぁ?なんか文句あんのかよ。」

「い、いえ、何でも…」





 凄まれると、フランシスは青い顔をしてあっさりと引き下がる。はそれにますます眉を
寄せて、険しい視線を彼に送った。

 なんてあてにならない奴だ。ギルベルトが昔、彼は最近イタリア2号だと言っていたが、確か
にその通りのようだ。まったく、絶対に加勢に呼んではいけなかった人物だった。頼りになる
と思ったのに。






「ご、ごめん、ごめんね。こ、この時代のアーサーって、結構とらうまなんだっ、俺らの…」





 震える声で言い訳をするフランシスはますます見苦しい。潔く腹を切ればいいのにと思って
しまう自分は、多分彼よりは男らしいと思う。





「てめぇの女じゃねぇのかよ?あぁ?」





 アーサーはの喉を片手で掴んだまま、思いっきりフランシスを蹴る。フランシスは蹴ら
れた足を庇いながら両手を挙げ、すぐに壁にへばりつくようにして下がる。何とも情けない。







「ち、さっき、説明しただろぉ!?おまえ、結婚してるって!!」

「は?このちびっ子と?」






 アーサーはぽかんとしてを凝視する。

 は縮んだ。第2次世界大戦後に神道思想が縮むのと同時に、体も縮んだ。しばらくして少
し持ち直したとはいえ、今でも15,6歳の姿をしている。欧米人の常識から考えればもっと若く 見
えるだろう。アーサーが驚くのは当然かも知れないが、もの凄く嫌だった。

 アーサーの手を懇親の力で振り払おうとしたが、ぱちんと音がしただけだった。





「離してください!」





 は喉元を掴むアーサーの手に身を捩って抵抗するが、喉を掴むアーサーの手がますます
強くなった。痛い、息が吸えない。





「いい顔するじゃねぇか。」

「やめろ、アーサー!!」





 本気で表情を歪め始めたを見て、フランシスが慌てて止める。アーサーは疎ましそうに
ランシスを見て、それから飽きたのか、喉の手を解いた。は何とか震える足で立った体勢
を支え、大きく息を吸う。すると胆が喉に引っかかって咳き込んだ。





、大丈夫か?」

「触るんじゃねぇよ。」







 の背中をさすろうと手を伸ばしたフランシスにアーサーは冷たく言い捨てる。は目
尻に涙を溜めたまま、荒い息を何度も繰り返す。崩れそうな肩を、アーサーに支えられて驚い
は顔を上げる。






「おまえがねぇ、」






 含みを持って言われ、はぐっと唇を噛む。彼はアーサーではない。夫とはとてもかけ離
れていて、なんと言えばいいのかさっぱり分からなかった。









 
瞼にこびり付いて離れない残像