菊は目の前の惨状にどうすれば良いのかと頭を悩ませる。





「あぁ?そこの女は俺のじゃねぇのかよ」





 アーサーが殴られて血が出た口元を拭いながら、ギルベルトの胸ぐらを掴む。






「そうだな。今の世の中、夫婦でもDVは成立するんだよ、」






 腹を殴られたギルベルトはそれでも立ち上がって、アーサーの胸ぐらを掴んでアーサーに凄
んでいる。思い切り殴り合いをしたせいでふたりとも頬には痣があるし、多分肩やらも酷いだ
ろ う。どっちも現役さながらの状態で負けていないのだがこの状況の収拾は誰がつけるのだ。
今日はルートヴィヒはいないのだ。






「ヴェ〜大丈夫?」





 フェリシアーノがに自分の上着を肩からかけてやる。はぼろぼろ落ちてくる涙を手
で拭っていた。







、首、噛まれてますね。」





 菊は自分のハンカチを出してきて、近くの水道でぬらしての首に当てる。しみるのか表
情を歪めただったが、何とか堪えた。





「怖いよ〜」





 フェリシアーノは男2人の殴り合いを遠巻きに止めることも出来ずあわあわする。






「DVってなんだよ?はぁ?変な略語つかってんじゃねぇよ。」

「ドメスティックバイオレンスって言ってな。家庭内暴力の略だよ馬鹿。俺様が直々に教えて
やってるんだから、その馬鹿な脳味噌フルパワーで覚えやがれ。」






 アーサーとギルベルトは相変わらずとっくみあいの喧嘩をしている。


 アーサーは現代では落ち着いているが元ヤンと揶揄されるくらいに一時荒れていたと聞く。
ギルベルトも結構やんちゃをしていた時期があると言うから、対抗できるのは彼しかいないの
かも知れない。ただ正直菊には範囲外だ。自分はそんな粗暴なまねをしたことは、多分ない。






「ひとまず、…おふたりとも手を離しましょうか。」






 菊が困ったように小首を傾げて言うと、ギルベルトはあっさりと手を離す。だがアーサーは
なかなか掴んだ手を離さなかった。





「なんだよ?」





 ギルベルトは緋色の瞳でアーサーの翡翠を睨み付ける。アーサーは菊の言うことを聞いたギ
ルベルトが信じられないようだが、なんだかんだ言っても菊とギルベルトの関係は深い。





「あぁ、初めましてといった方が良いんでしょうね。私日本、菊と言います。私は冷静なお話
し合いをしたいだけなのです。一度冷静におはなしできませんか。」





 落ち着いた様子の菊に、アーサーは眼をぱちくりさせたが、やっとギルベルトから手を離し
た。






「日本?オランダが貿易に熱心だった、あそこか。」

「そうですね。は私の妹に当たります。」

「引きこもりが偉そうにっ、」





 アーサーは菊を鼻で笑う。

 確かに鎖国していた頃の記憶しかないアーサーからしてみれば、菊など取るに足らないと考
えるのは当然だろう。





「ですが今は世界で三本の指に入る経済大国ですから。」





 菊はたおやかに笑って、泣いているを抱きしめる。ギルベルトも泣きじゃくっている
の頭をそっとなでつけた。その緋色の瞳は先ほどとは打って変わってを労るように優し い。
アーサーはそれを見ると酷く不快そうな顔をした。

 おや、と、菊は思う。

 どうやらギルベルトや菊がに触れることをアーサーは不快だと思っているらしい。記憶
がなくなったとはいえ、彼女を思う何らかの感情は体に残っているようだ。





、落ち着きましたか?」





 菊はの背中をそっと撫でてから、ぽんぽんと頭を軽く叩く。





「…はい。」






 怖かったのか、ショックだったのか、はこくんと頷いたがまだ震えていた。

 さて、と菊は改めてアーサーを見る。剣呑な翡翠の瞳は菊を相変わらず睨み付けている。ギ
ルベルトに向けられていた怒りのベクトルは完全に菊に向いている。菊がの兄だという話
は容姿を見れば十分に信じられるものだろうが、心では男に抱きついているという意味で認め
られないようだ。

 もとの彼もこの手の葛藤には悩まされていたようだから、行動が粗暴であるという点だけで
感じ方は同じなのだろう。

 菊は彼を刺激しないようにを近くの椅子に座らせて自分から少し遠ざける。それから自
分も別の椅子に座った。ギルベルトは近くの壁にもたれかかる。フェリシアーノはギルベルト
の影に隠れてアーサーを伺った。






「状況は、フランシスさんから、お話しされましたね。」





 菊が確認のために尋ねると、アーサーはしっかりと頷いた。

 知っていて、を襲うようなマネをしたのかと、少し眉間に皺を寄せそうになったが、彼
は一応忘れ病にかかったのだと思い直す。






「…一応が電話をして、貴方の上司から一ヶ月の休みをもらっています。その間どうなさ
るかということです。」






 菊は努めて落ち着いた声音でアーサーに言った。

 菊はフランシスから記憶喪失だという話も、海賊時期に記憶が退行しているため危ないとい
う話も、どちらも聞いている。無理矢理にでも妹を日本に戻せと言うのがフランシスの言だっ た
がそれを妹がなかなか受け入れないであろう事も分かっていたし、様子見を含めて見舞いに 来
たのだが、ここまで酷いとは思わなかった。






「俺はロンドンに住んでたんだろ?だったらそこに住みゃあ良いじゃねぇか。」

「一緒に住む人間の話です。」






 菊はぴしゃりと言う。

 彼はイギリス自身なのだから、ロンドンに住むのは何ら問題はないし、当然のことだ。ただ
一緒に住む人間は考えなければならない。





「おまえ、落ち着いてンなぁ?」






 アーサーは椅子に足を組んでふんぞり返って、ははっと笑う。妹を犯されそうになったのに
と、揶揄しているのだろうが、そんな挑発に乗る菊ではない。このような場、長く生きている
菊にとっては今更だ。





「貴方は今、300年前の人です。技術も違います。そう言った面で、身近でものを教えたり、世
話をする人間が必要なのはおわかりですね。」






 当然だが300年前とは大きく世界は変わっている。適当に道路を歩いていたらそれだけで車に
はねられるだろう。信号も知らなければならない。他にもたくさん彼が知らない物がここ300年 ぐら
いの間に出来ているだろう。





「だったらそいつ、俺のなんだろ?」






 アーサーはを指さす。

 多分誰かが必要なことは、どこかでアーサーも感じていたことだったのだろう。彼の中に不
安がないわけでもない。妻であれば、それなりに深い繋がりを持つ人間だ。最近の記憶をなく
してしまったアーサーにとって、妻は少なくとも僅かなりともすがれる存在だ。

 フランシスは彼の記憶の中の状況では絶対に頼りたくない人間で、彼には親しい知り合いも
少ない。

 そう言ったアーサーの感情を菊はあっさりと見抜いていた。多分彼の言うとおり、自分は落 ち
着いているのだろう。






「その通りです、ですが私も彼女の兄です。無体を強いられている妹を見れば、連れて帰ろう
と思うのは、兄心として常でしょう。」





 菊はに目を向ける。幼い頃から育て、慈しんだは菊とそっくりで、誰よりも愛しい
少女だ。もちろんそれは親族としての愛情だが、だからこそ深い。





は貴方の傍にいることを望んでいるようですから、反対はしませんがこういう事があま
り頻繁にあるようでしたら、連れて帰りますよ。」






 菊は柔らかに微笑んでアーサーに告げる。

 彼も菊が本気だとは分かっただろう。お手上げだとでも言うように、両手を挙げる。






「へぇ?でもおまえ遠いんだろう?どうやってこの国での出来事を知るんだ?」






 行動の割に彼は自分勝手に動くことを諦めてはいないようで、さらりと言う。

 要するにアーサーの行動を見張ることが出来ないだろうと言っているのだ。だが、今の時代
そんなの簡単だ。





「今はメールという一瞬で地球の裏側まで届く電子手紙がありますので問題ありませんよ。」






 菊はの肩をぽんと叩く。





「貴方必ず私に2日に一度、メールを送りなさい。」

「え、ぁ、はい。」

「あと、1週間に一度必ずロンドンの大使館に顔を出しなさい。私が貴方に出すロンドンに残る
条件はそれだけです。」






 メールだけでは不安な部分もあるから、一週間に一度、日本大使館に顔を出させる。そうす
れば、顔を出さなければおかしいと思うし、顔を出した時に傷などがあれば、皆が菊に連絡す
るだろう。

 誰であれを仇なすものは許さないというのが、菊の基本方針だった。



 
どうすればその感情を認めて下さるというのですかあなたは