カークランド邸は大きさとしては結構こじんまりした屋敷だ。とはいえ数百年前に立てられ
た建物であり、小さいなりにも内装は凝っているし、イギリスらしくてはそれが好きだっ
た。
朝起きて、ひとまずたくさん咲いた庭の薔薇の手入れをする。いつもはアーサーがやってい
たが、彼が忘れ病にかかって入院してからの仕事になっていた。とはいえ、薔薇の世話
の仕方などアーサーが勝手に話していることを聞きかじったぐらいで、本当はろくに知らない。
100年ほど前、がこの国に来たヴィクトリア朝の終わり頃は貴族さながらの暮らしをして
いたアーサーも現代になると今の人々に合わせてか、使用人も雇わず、こじんまりとした生活
を好むようになった。だから庭師も前の人が亡くなってからいない。アーサー1人で世話をして
きた。
まだ4日ほどなのでそれでも薔薇は咲いているが、これからも同じ状態だというのならば来年
はどうなっているか分からない。水やりはしているが、それだけで良いのだろうか。肥料は?
害
虫の除去は?考え出せば不安が募った。
「朝っぱらから何してんだよ。」
後ろから声をかけられ、はびくりとする。
振り向くと髪もぼさぼさ、ボタン求めずにシャツを羽織っただけのアーサーが、眠たそうな顔
でを見ていた。昨日の獰猛な翡翠の瞳を思いだして身がすくんだが、はジョウロをア
ーサーに見せた。
「おまえ、毎日水やりしてんのか?」
アーサーは呆れたような顔で問うた。花というのは毎日水をやる物ではなかっただろうか。
首を傾げていると、彼はますます眉を寄せた。
「土の表面が乾いてねぇだろ。なのにばたばた水かけるんじゃねぇ。根腐りおこすだろうが」
アーサーはの手からジョウロを取り上げた。
あぁ、そんなこと知らなかった。農作業くらいしかしたことのないにとって植木鉢やら
見る
ためだけの繊細な薔薇の世話など、想像にも及ばない。朝顔など放って置いても咲いてく
れる。
屋敷にジョウロを持ったまま戻っていくアーサーの背を、はぼんやりと眺める。同じな
のに、
いつもと同じ背中なのに、何もかも違う。残酷だ。菊と一緒に日本に帰った方が、遙か
に楽
だったろうに、どこかですぐにアーサーが戻ってくると思っている自分が、本当に甘いと思う。
「何ぼさっとしてんだよ、」
アーサーはジョウロを水道の端において、へと歩み寄ってくる。
「いえ、そうですね。朝ご飯にしないと。」
アーサーも起きてきたことだしと、は気を取り直して息を吐く。今日は朝からパンを焼
いたのだ。せっかくのイチジクのパンだ。フランシスからもらったバターをたっぷりとつけて
食
べよう。そう頭の中で想像してアーサーの横をすり抜けようとすると、手を掴まれた。
「避けんなよ。」
あまりにストレートな言葉に、は怯む。
「え、あ、あの、」
「違うとは言わさねぇぞ。なぁ?寝室のソファーで爆睡なんてな。」
アーサーの言葉に、知っていたのかと驚く。
元々夫婦なのだから、アーサーとの寝室は同じだ。だがアーサーが忘れ病にかかって
しまった限りは同じようにとはいかないし、病院の時はたまたまギルベルトや兄が助けてくれ
たが、家ではそうはいかない。
だから、アーサーに客間を使わせ、自分はいつもの寝室で眠ろうと思ったのだ。だが、やは
りひとりでダブルベッドに転がると寂しさがこみ上げてきて疲れているのに眠れず、結局近く
にあったソファーで本を読んでいたらそのまま眠ってしまった。
アーサーは客間に一度行ったが、気になって寝室に入ってきたのかも知れない。眠っていた
は、疲れもあって気付かなかったのだ。
「それにおまえ、もう少しでかかったんだな。」
寝室の写真でも見たのだろう。アーサーは何でもないことのように言う。
戦後、は少し小さくなった。20歳前後だった容姿は一気に14,5歳まで下がった。理由は
簡単だ。の元であった天照信仰が僅かなりとも薄れたからだった。それでも残っているの
は自身が日本と大きな繋がりを持ち、日本の国に根付いたおかげで消えずに済んだのだ
が、容姿が縮んだことは、の小さなコンプレックスだった。
勝手に見たというのにも抵抗を覚える。それにあそこはアーサーの寝室であって、今の彼の
寝室ではない。
むっとして眉を寄せると、アーサーが僅かに翡翠の瞳を動かした。
「不満そうだな、」
言葉の割に、彼は楽しむような顔をした。
「…いろいろ事情があるんです。」
知らない癖に、いらないことを言わないでという言葉を八つ橋にくるんだが、彼にはあまり
伝わらなかったようだ。
「何か、面白いものでも見つけられましたか?」
は至極落ち着いた声音を心がけて尋ねた。
「あぁ、そうだな。アルバムとか、日記とか、まぁ記憶をなくしても考えることは同じって事
だろ。見つけたさ。」
アーサーは鼻で笑う。
見られたら恥ずかしいからとアーサーは日記やらを懇切丁寧に隠していたようだ。探したこ
とがないので、そもそもどれくらい探索に難易度が高いのかは分からないが、寝室から出て
き
たようだ。
と言うことはそれなりに寝室を探したと言うことで、それでも起きなかった自分に少し呆れ
る。昔菊が「貴方は寝付き悪く、抱き下ろすとすぐに泣出すんですよ。」あやすのが大変だっ
たとぼやいていたが、少なくともそれほど繊細な神経は幼い頃だけだったのだろう。この人
が
どう見ても静かに探せそうには思えないし、
「そうですか。」
静かな声音を心がけたつもりだったのに、その声は酷く冷えていた。自分でも驚く。
「おまえにとって俺が俺を知ることはわりぃことじゃねぇだろ?」
「…そうですね。」
「その癖すっげぇ不満そうだな。」
アーサーの言葉に、ははっとする。
まるで、穢されるような感覚だったのだ。彼との思い出を。指摘されたようで、は心臓
をわしづかみにされた心地がした。なんて、自分は汚いことを、
「ばっかじゃねぇの?」
あざ笑う翡翠の瞳がに現実を突きつける。
は顔を覆って一歩後ろに下がる。それを追うようにアーサーが一歩踏み出して、の
手を自分の方に引っ張った。体がアーサーの方へと倒れ込む。突然のことで驚いたが、そのま
まアーサーに抱きしめられてしまって、は動けなくなった。
いつもよりずっと強い腕の力にもっと驚く。こめかみにそっと口付けられて、優しい唇にア
ーサーを思い出す。唇が優しく指で撫でられる。
「良いか?」
酷く甘いその声音に引きずられるように、頷きそうになるが、はどうして良いか分から
なかった。
今のアーサーに流されることは、酷い裏切りのような気がするのだ。先ほど問われて、
は自分の中の葛藤に気付いてしまった。彼を受け入れることが、大切なアーサーを忘れてしま
うことのように思えるのだ。同じ人なのに、違う人。考えている間に唇を指がなぞっていく。
思わずは俯いてその指を拒絶した。
「俺は、受け入れられねぇってか?」
くつくつと彼はのど元で笑った。
翡翠の瞳が僅かに揺れて、を映す。
ゆらゆらと水分の多い瞳は、すぐに涙が浮かんで、アーサーは酷く素直に泣いていた。傷つ
く度に浮かぶ涙は、どこかで自分を想ってくれていると知っていた。
でも今は違うんだろう。この人は、アーサーであってアーサーではない。愛してくれた人で
はない。
「思ってるのは俺だけ、」
アーサー笑って口にする。
は驚いて目を見開き彼を見上げた。その言葉はアーサーが前に激昂して一度口にした言
葉だった。日記にも同じことが記されていたのだろうか。
「日記の通りらしいな。ま、俺は覚えちゃいねぇからいいけどな。」
アーサーはあっさりの体を離した。
離れていく体が酷く寂しくて、でも追いすがることも恥ずかしくていつも出来ない。手を伸
ばし
てくれるアーサーはもういない。
は彼を見上げて何も出来ず、どうすればいいかも見あたらなかった。
哀しみとほんの少しの優しさを唄うような