昼過ぎに出かけたアーサーが次の日に帰らなかったのは、昨日のことがあった翌日だったた
め、はどうして良いか分からずフランシスに連絡した。
ロンドンとパリはユーロスターで数時間の場所にあり、飛んできたフランシスはアーサーを
捜
し歩き、結局昼過ぎには家に連れて帰ってきたのだが、ずいぶん様子が違った。フランシス
は
驚くほど酷く憤り、アーサーは頬に痣を作っていた。
アーサーは酒を片手にまだ持っていて、酷く酔っぱらっているようにも見えた。
どうやら今のフランシスとアーサーではアーサーの方がずいぶんと強いようだったのに、ど
う
して彼はわざわざ殴られてやったのか、何があったのか、には分からなかったが、フラ
ン
シスは非常に不機嫌で、帰って早々の手を握って、フランスにおいでと笑った。
「え?」
「菊ちゃんには連絡して上げる。」
フランスはご飯美味しいよ、なんて驚くに白々しい事を言う彼の青色の瞳は、今まで見
たこともないほど酷く怒っていた。
「え、あ、あの。」
「フランスが嫌ならトーニョのとこでも良いな。あー近場ならドイツか。ギルが喜ぶ。好きだ
ろ?」
矢継ぎ早に言うフランシスは戸惑うなんてお構いなしだ。
「アルでも良いなぁ。彼君のこととても気に入ってるだろう?マシューでも良い。」
「フランシスさん?」
はフランシスの名前を呼ぶ。
「…ひとまず、こいつがいないところだ。」
フランシスは吐き捨てるように言って、アーサーを睨み付ける。アーサーも翡翠の瞳で真っ
向からフランシスに答えたが、いつもの覇気はない。酔っているからと言うよりも、何かある
ようだ。
「どうしたん、ですか?」
は震える声でフランシスに問うた。
昨日から一晩、何をしていたか。聞きたいようで聞きたくない。でも、聞かなくちゃいけな
いと思った。
「っ、」
フランシスは口を開きかけたが、言うにはばかられたのか、口を噤む。柳眉を寄せる彼に、
は最悪の言葉が思い浮かんだ。何となく、女の勘として分かっていた。
「何が悪いんだぁ?そいつは俺は受け入れられねぇってんだ。」
アーサーは冷たくを突き放す。
「だったら、どこで何してようが、俺の勝手だろ?」
「アーサー!おまえっ!!」
フランシスがアーサーの胸ぐらを掴む。
は、アーサーを拒絶した。記憶もなく、愛されていないのに抱かれるのは絶対に嫌だっ
たし、自分を想ってくれていたアーサーに申し訳ないような気がしたのだ。それを彼は受け入
れられないならば自分の勝手にして良いと解釈したようだ。
確かに、彼とは今『他人』だ。が愛したアーサーの顔をした、アーサーにそっくり
な、でも別の人間。彼は女性を抱きたかったのだろう。身近にいたはそれを拒絶した。だ
から勝手にしても良いと踏んだのだ。
要するに、昨日からどこに出かけてるかと思ったら、女を引っかけて、一晩過ごしていたら
しい。それならばいつの時代もどこでも出来る話だ。誰かが教えるまでもない。やることは、
一緒。
「そう、ですか…」
絞り出すように声を出す。
彼は『他人』だ。今の彼は他人でを知らないし、が愛したアーサーでもない。それ
で
もその体はが愛したアーサーのもので、彼に抱かれた女の人がいる。そう思えば、胸が
焼
けるようで言葉にならなかった。
言葉が、思いつかない。逃げ出したい。
でも、がいなくなればまた、彼は違う女性を抱くのだろうか。アーサーと同じその腕に
また違う人を。
「わ、わたし、が、貴方に抱かれれば、それで、いいん、ですか?」
は胸元の着物の襟元を握りしめてアーサーを見る。翡翠の瞳を僅かに動かして驚くそぶ
りを見せたが、すぐに首元を掴んでいるフランシスの手を払って、どさりとソファに座った。
サイドテーブルに酒を置いて、そのまま足を組む。
「!」
フランシスがの肩を掴むが、すぐにアーサーが冷たい声をかけた。
「そいつに触んじゃねぇよ。」
フランシスは臆してすぐにから手を離す。
「帰れよ。これは俺とこいつの話だろ?せっかく面白くなってんだから、興が冷めるようなま
ね、するんじゃねぇ。」
アーサーは酷く楽しそうに、そして獰猛な笑みを浮かべてフランシスにひらひらと手を振っ
て去るように示す。フランシスはを見るが、もこれから怒ることを考えれば、ここに
フランシスがいられるのは困った。
意図を察してか、フランシスは息を吐いて踵返す。後ろ姿を見送ると携帯電話を出していた
から、菊か誰かにことを連絡する気なのだろう。出来れば兄が本気でを連れ戻しに来な
い
ことを願う。彼から離れたら、また彼は違う人を抱くのかも、知れないから。
彼の後ろ姿が消えたのを確認してから、もう一度アーサーを見やる。
「楽しませて、くれんだろ?」
来いよ、と布手袋に包まれた手が相手を待つように手に平を上に向ける。だが、彼はソファ
ーから動かない。は伺うように翡翠の瞳を見たが、うっそりと瞳を細めただけで、何も言
ってくれなかった。が来るのを待っているらしい。
はごくりとつばを飲み込んで、アーサーの元に歩み寄るべく足を踏み出す。たった数メ
ートルの距離が酷く長い。彼の手に、自分の手を重ねる。すると満足げに微笑まれて、の
手を握ってそっと手の甲を向け、そこにアーサーが口付ける。はいつものアーサーが戻っ
てきたような優しい動作にぞくりと自分が疼くのを感じた。
あぁ、はしたない。
羞恥に顔が焼けそうで俯けば、アーサーが笑ったのが分かった。
「ほらほら、そんなことじゃ俺はよそに行くぞ?」
「え?」
「やれ、」
自分で、と殊更ゆっくりと彼は言う。言葉が、理解できない。でも、やるしかなくて、
は座るアーサーの足の間に右足の膝をついて、そっと自分の唇を彼のそれに重ねた。
薄い唇は温かくて、酷く恥ずかしい気持ちになる。自分からキスをするなんて、初めてだ。お
酒の臭いがして、自分まで酔っているような気がする。少し舌を出してアーサーの唇を舐めて
みる。だが、なんだかいつもとは違って、どうすれば良いのかわからなかった。
「おまえ、へっただなぁ。へたっぴ。」
楽しそうに笑って、アーサーの手が頬を撫でてくる。手のひらが頬を辿って、親指が下唇を
押して、口を開かせる。
「ぁ、」
が小さな声を上げたと同時に、アーサーの唇が振ってくる。口を開いて舌を受け入れた
ら、絡め取られてますます深く繋がる。こういうキスはいつも苦手で、すぐに逃れたくなる。
顔に熱が籠もっていくのが分かる。くちゃっと粘着質の音がした時、は思わず体を撥ね
さ
せた。すると宥めるように背中を優しく撫でられた。
アーサーの足の間に着いている右足が、床に着いている左足が、酷く不安定に震える。唇が
離れると、アーサーはの体を抱きしめた。
「どこにも、行くんじゃねぇよ。」
告げられた言葉に、彼の不安を知る。はくしゃりと表情を歪めて、またもう一度彼に口
付けた。
結局、やっぱりアーサーなのだ。粗暴でも偉そうにしていても、翡翠の瞳は傷ついたように
ゆらゆら揺れていた。ただ泣かなかっただけ。にここにいて欲しかったのだろう。素直に
言わない、偉そうに言うだけで。
それに気付けば酷く安心した。
「アーサー、」
名前を口にすれば、自分で恥ずかしくなるほど熱っぽい声になってしまった。彼はそれに嬉
しそうに翡翠を細めて見せる。
あぁ、愛しい人。
はそう思って体の力を抜いて彼に身を任せた。
それでも笑ってくれたのは 君