真剣に書類をめくっている男を、はまっすぐ見ることが出来なかった。


 柔らかな髪をうなじあたりでとめたその男は柔らかそうな雰囲気を漂わせているが、油断ならない人物
であることは知っている。プロイセン国王フリードリヒ2世。先のオーストリア継承戦争で神聖ローマ帝 国
からシュレジェンを奪い取り、維持する天才的な国王だ。



 直接謁見する機会など如きにあるはずもなく、あまりの緊張に手の震えが止まらない。

 一応亜麻色の髪はちゃんと巻いているし、肩はむき出して露出が激しいので落ち着かないとはいえフォ
ンデンブロー公爵が用意してくれたドレスなので不手際がないと思うが、元があまりに悪いので何も言い
ようがない。は国王の前だというのに逃げ出したくなった。





「もう話は聞いていると思うが、」





 書類を見ていたフリードリヒが落ち着いた様子でそれを机の片側に置き、を見る。





「君にはギルベルト・フォン・バイルシュミット将軍に嫁いでもらう予定だ。」






 確かに父からも聞いていたが、は息を呑む。

 その男の名前はが重苦しいほどに知る名だった。オーストリア継承戦争で活躍した若き将軍で、
フリードリヒ2世の信頼も厚い。確か称号は公爵で、領地も保有していたはずだ。直接見たことはなくと
も、プロイセン、もしくはオーストリアの貴族ならば畏怖を持って一度は聞いているはずだ。

 だからこそ、よくわからない。の生家であるアプブラウゼン侯爵家は、元々はオーストリアの
騎士の家系だが、 現在はプロイセン王国の臣下として、オーストリアとの国境に領土を持っているが、
領地自体も兄が継ぐことになっているので、は何も持たない。父にも疎まれているのでなおさら
だ。手を組んでも良いことなどないし、新進気鋭の公爵が娶って役に立つような花嫁でもない。


 その上、生憎は美人でもなかった。亜麻色の髪はくすんでいるし、すみれ色の瞳は不気味だとよ
く言われる。俯く癖もあるから、なおさらだ。

 何故だろうと思っていると、その感情が伝わったのか、彼は困ったような顔をした。







「これはギルのたっての希望でね。突然で申し訳ないが。」

「いえ、そんな・・・」






 は俯いて首を振った。国王の命令を拒絶するなんて事はどんなに願っても出来ないとだっ
て知っている。ましてや軍隊に定評のあるプロイセンだ。侯爵領の没収など容易いだろう。

 恐縮していると、彼はをまじまじ見つめた。それに気付いて、はっとすれば、彼も流石に悪かった
と思ったのだろう、謝罪を口にした。





「すまないね。ギルが君のような子が好みとは思わなくて、」

「多分、失望なさると・・・思います。」






 は思わずそう零していた。






「まぁいいんだ。人の趣味はいろいろだ。」






 言外に、彼もを相応しくないと言いたいらしい。

 自分が暗いことも地味であることも分かっている。着飾っても全く変わらないのは纏う雰囲気だ。目の
前の男がどんな服を着ていたとしても王としての威厳を持つように、はいつでも下を向いている。




 ―――――――――顔を上げろ、無様な、




 そう言った、男を思い出して、は思わずすみれ色の瞳を細めた。






「会ったら聞こうと思っていたのだが、君はフォンデンブロー公爵と仲が良いのかい?」





 フリードリヒはさも今思い出しましたと言う調子で尋ねる。はどう答えるべきか迷ったが、素直
に頷いた。






「はい。母方の親族で、母がよくわたしをつれて行ってくださいましたので、」






 の母アプブラウゼン侯爵夫人マリアは既に亡くなっている。母は元々後妻で子供も女である
1人、両親も早くに亡くなっていた。母はフォンデンブロー公爵家の縁者にあたり、老齢の公爵とも親し かっ
たのだ。その故もあって母亡く、父からも疎まれるを何かと援助してくれていた。もちろ ん、それ
だけでは、ないのだが。






「いや、フォンデンブロー公爵は、今回の結婚に賛成だったからね。意外だと思って。」






 オーストリア継承戦争の折、フォンデンブロー公爵も元々はオーストリアに味方をしており、最後ま で
頑強にプロイセン王国に味方をするのを嫌った。フォンデンブロー公国は小国だが、孫で公国の将軍だ
ったカール・ヴィルヘルム公子はプロイセンの侵入を見事に阻んだ。その代価は彼の死であったがそれ
によってプロイセンはフォンデンブロー公国の攻略を諦め、講和条約という形で協力を求めた。


 跡取りであった孫を失った公爵は憔悴しきった様子で講和条約に臨んだわけだが、その席に
もいたのだ。彼女はギルベルトの存在を覚えていないようだが、彼はそこでを見初めた、よう
だ。多分それ以外に接点がないから。

 親族であることを考えればの同席はおかしくないが、プロイセン王国を好んでいない公爵が
とプロイセン軍であり、孫の仇でもあるギルベルトの結婚を歓迎したのは、フリードリヒにとってはなか なか
理解しがたい事実だった。





「そう、ですか、」





 はしばらく考えるそぶりを見せて、納得したように頷く。





「何か、あるのかい?」

「え?」






 フリードリヒが尋ねると、は驚いたように目を見開いて首を振った。






「い、いえ、だから、ドレスを作ってくださったのだと、思って、」






 その答えは、フリードリヒの望むものとはあまりにかけ離れたものだった。思わずフリードリヒはため
息をつく。

 これからギルベルトの屋敷に行くたびにこの暗い女がいると思えば、落ち着けるものも落ち着けない。
彼女も何故ギルベルトが自分を選んだのかわからないようだが、フリードリヒもその点では彼女と同意見
だった。





「おーい、開けても良いか?」





 ノックと言うには叩くような音が声と共に響き渡り、が肩を震わせる。それをうんざりした様子
で眺めてから、フリードリヒは息を吐いた。






「開けるなと言っても開けるだろうが、」

「それもそうだな。」





 言って入ってきたのは、フリードリヒの予想通りギルベルトだった。色の抜け落ちたような銀色の髪の
毛と、あまりに印象的な緋色の瞳はいきいきとしている。一応とでも言うように面倒そうに帽子を脱いだ
彼は、小柄なに目をとめる。





「あれ?誰?」

「は?」






 が反応するよりも早く、フリードリヒがぽかんと口を開く。





「なんだよ、フリッツ。口開いてンぞ。けせせ、」

「意味が分からない。おまえが結婚したいと言ったんじゃないのか?」

「あぁ、アプブラウゼンのか。言ったけど、顔知らね。」





 ギルベルトはひらひらと手を振る。事態が飲み込めないも先ほどのフリードリヒと同じような顔
をする。






「おまえ講和会議の時に見初めたんじゃないのか・・・?」

「講和会議時にいたのか?」





 フリードリヒは諦めずに尋ねるが、ギルベルトはいたこと自体気づいていなかったらしい。

 フリードリヒは反論のしようがなく机に突っ伏す。は国王の敗北にどうして良いか分からず、お
ろおろとする。





「期待してなかったけど、暗い奴だな。しけた面、」






 に無遠慮に顔を近づけて、観察してから、ギルベルトは鼻で笑った。かちんと来て、おかげで何
故か落ち着いた。

 せせら笑うようにぎーぎーと彼の頭のひよこが鳴いている。何となく苛立ちが募る。





「まーどうせ、数十年で死ぬんだし、がんばれや。」






 せっかく綺麗にセットした髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でられたあげく、ばしばしと叩かれる。

 誰かは知らないが、初対面の女にぶしつけにも程がある。そして酷くがさつだ。もそれほど良い
育ちとは言えないが、それでもオーストリアの宮廷にて過ごしたこともあるのだ。何で初対面の男にこ
んなことを言われなければならないのだ。





「人のしけた面のことを気にしている暇があれば、そのがさつさをお直しになったらよろしいのに…。」





 俯いたままぼそりと呟いたの言葉は、結構部屋に響いた。

 もそのことに気付いてますます俯いて凍り付く。






「ご、ごめんなさい。口からぽろっと出ちゃって・・・」






 は慌ててギルベルトに頭を下げるが、既に聞いてしまっている。





「ぽろっとってこたぁ本音だろ?・・・・案外度胸あんじゃねぇか。」





 ギルベルトは笑いを引きつらせてに詰め寄る。

 国王と将軍の前でした自分の失態には涙が出そうだったが、フリードリヒ肩を震わせて笑ってい
た。










今想えばそれは必然から始まった偶然だったと想うの