倒れたをシェーンハウゼン宮殿の一室を借りて運んだギルベルトは小さく息を吐いて、ベッドの
近くにあった椅子に座った。ここはシェーンハウゼン宮殿の客までギルベルトがが倒れたのを国
王フリードリヒの妃であるエリザベート・クリスティーネに話すと、あわてて部屋を準備してくれたのだ。
朝まで使ってもかまわないとまで言われたが、一応まだ結婚はしていないのでギルベルトは隣の部屋
も
ついでに借りた。
軽く頬をたたいたりもしてみたが、の意識はあの場では戻らなかった。青白い顔に、悪い夢でも
見ているのか、眉にしわがよっていた。少し汗ばんだ額の前髪を払ってやる。
「本当に、仕方ねぇやつだな。」
手間のかかる。と思いながらも、ギルベルトはくしゃりと彼女の頭をなでてやった。
多分ヒルダと名乗った姉との間にも確執があるのだろう。父親であるアプブラウゼン侯爵にも疎まれて
おり、だからこそ母の死後に母の縁者であったフォンデンブロー公爵の公国で過ごしていたと、国王であ
るフリードリヒの調べですでにわかっている。
「ごめんな。」
ギルベルトは眠るにぽつりとつぶやく。それは彼女には直接言ったことのない言葉だった。
昨年のオーストリア継承戦争の折、ギルベルトは戦略上オーストリアとの国境付近にあり、神聖ローマ
帝国派であったフォンデンブロー公国を攻略するべくフリードリヒとともに馬を進めた。しかしフォンデ
ン
ブロー公爵の孫で、次の公爵あるカール・ヴィルヘルム公子がその行く手を阻んだ。
戦いの結果は、講和条約だった。フォンデンブロー公国の攻略は失敗。しかしカール・ヴィルヘルム公
子も戦死し、フォンデンブロー公国は継承者を失った。公爵はオーストリアを主人とするのに変わりは
な
いが、プロイセン王国に対して敵対行動をとらないということを約束した。
は母の死からフォンデンブロー公国におり、公爵と公子の庇護下にあった。戦争を、そして戦
死をどのような思いで見ただろうか。
――――――お前が、プロイセンか、
木を背にして血にまみれ座り込んでいてもなお誇らしげに笑った男は、ギルベルトを見てそう言った。
彼はギルベルトが『国』そのものであると一目で見抜いた。ひどく聡明な、ここで亡くすにはもったいな
い男だと思ったが、その傷は助けられるようなものではなかった。
――――――なぁ、フォンデンブローがほしいか?
男の問いは、率直だった。フォンデンブロー公国は、広い。戦略的にも重要な位置にあり、のどから手
が出るほどに欲しかった。だから攻めたというのに、この男の命と引き換えに、プロイセンは戦力を消失
した。フォンデンブロー公国の攻略は少なくとも数年は無理だろう。むかつく、とぶすっとした顔で返す
と、男は声を上げて笑った。
――――――しけた面の、女がいる。誰からも必要とされず、俯いてばかりいる馬鹿だ。
その女を手懐けられたら、フォンデンブローは手に入ると、男は言った。とっさの意味はわからなかっ
たが、男は億劫そうに自分のポケットを示した。中に入っていたのはただの紙。そこに書いてあったのは
イギリスのどことも知れぬ住所だった。ギルベルトが紙を見ながら首をかしげていると、男は困ったよう
な顔をした。
――――――が頷けば、協力してくれるだろう。
と言った時の男はひどく優しそうな目をしていたから、おまえの女かとギルベルトは問うた。ま
だ違ったと、男は即答した。
――――――なぜ俺にその女を託す。
公国の話など、ついでだろう。それを餌にこの男はとか言う女の保身を図りたいのだ。その意図
は見え見えで、だから意味がわからなかった。どうして敵である自分に言うのだろう。死ぬほど守りたか
った公国で敵を釣ってまで、女を守るために言葉をつむぐ彼がわからなかった。
男は改めてギルベルトをその闇に覆われかけている瞳に写した。
――――――おまえは良い目だ。生き生きしていて、力もある。神聖ローマとも、オーストリアとも違う。
プロイセンそのものであるギルベルトに、彼は未来を見た。死に曇る瞳は、それでも未来を見ていた。
しかしそれは自分の未来ではない。
――――――彼女に、
最後に男は懐かしそうに目を細めて、栄光を、と唇だけでつぶやいた。
彼が示した女がアプブラウゼン侯の娘であると判明したのは、フォンデンブロー公国との講和条
約のすぐ後だった。自分を打ち負かした男の最期の願いを見捨てるほど、自分は薄情ではない。
はじめて見た彼女は亜麻色の髪にすみれ色の瞳の、別段言うほど特筆した容姿でもないがぶっ細工と
いう程でもなく、悪くはなかったが、ギルベルトが見てもわかるとおり、彼女は『誰からも必要とされず、俯
いてばかりい』た。
父であるアプブラウゼン侯爵からは疎まれ、兄弟とも母親は違い、頼みの母親は2年前に死んでいて、
目だった親族もなく、彼女は母親の親族であるフォンデンブロー公爵に預かられていた。幼く、後ろ盾の
ない彼女が俯いて生きなければいけなかった理由が、そこにあった。
触ったら死んでしまうのではないかと思うほど弱く、俯いてばかりの彼女だが、それでも小さな意思が
そこにあって、だからこそ、ギルベルトは彼女を娶ってもよいかな、と本気で思った。どうせ居場所もな
いのだ。人間は数十年で死ぬ。その短い一生の間の居場所に少しくらいの間なってやっても良いと、思
った。
ただ、一緒に住みだすと、やはり自分のことをどう思っているのかが気になった。彼女にとって、ギル
ベルトは仇であり、敵なのだ。そのことについてどう思っているのかを、怖くて聞いたことはなかった。
「なんだろうな。」
好かれたいとでも、自分は考えているのだろうか。
やさしく彼女の亜麻色の髪をなでていると、まぶたがゆっくりと開いて菫色の瞳が現れる。ぼんやりし
たそれは、ギルベルトを写すとまん丸になった。
「わ、わたしっ、」
慌てて起き上がろうとするから、ギルベルトはそれを軽く抑えてベッドにいるように促す。しかし結局
彼女は起き上がってしまった。
「倒れたんだからおとなしく寝とけよ」
「で、でも、舞踏会、いえ、あのここは、」
「ここはシェーンハウゼン宮殿の客間だよ。明日の朝までは借りたから、別に気にすんな。」
あせってあわあわするにギルベルトは軽く言う。は運んでもらったことも舞踏会を途中で
退出したことも、全部全部恥ずかしいし、申し訳ないらしく、ひたすらギルベルトに謝った。こちらがう
ん
ざりするほどに謝り、挙句目じりに涙までためる。
「別に良いって。あそこで放ってきたら、婚約者うんぬんの前に人間として最悪だろ。」
「そ、そうですけど、いや、そういう問題じゃなくて、」
ぐずぐずまだ言うに、ギルベルトはため息をつく。ついでに目じりにたまった涙もハンカチでぬ
ぐってやった。
ギルベルトにとって舞踏会の途中退出も、彼女を運んだこともたいした問題ではない。むしろ。
「ヒルダとか言う姉貴から何言われたんだ。」
「え、あ、あっ、そうですが、」
はわけのわからない言葉を並べてから、また俯いてしまった。
ギルベルトにとってはそちらの方が気になった。倒れるほどの言葉って、いったい何なのだ。は
また涙ぐんで、俯いてしまう。表情が伺えないがひどく憔悴しきっているのがわかった。
「仕方ないんです、わ、たしは、」
絞り出した声は、震えていた。話そうと何度も口を開くのだが、言葉は一向に出てこない。代わりに嗚
咽が漏れて、は口をつぐんだ。
倒れるほどの悪口が仕方がないなんて、どうして簡単に言えるのだろう。どうしてそんなに俯いて、彼
女は自分が悪いと耐え忍ぶのか、ギルベルトにはわからなかった。わかるのは、まだギルベルトに話す
の
は難しくて、問えば問うほど彼女を追い詰めてしまうということだ。
「あぁ、もう良い!!」
ギルベルトは叫んで、彼女の肩に手をかけ、こちらに引き寄せる。ギルベルトの肩に顔をうずめること
になった彼女はなれていないため、真っ赤になって離れようとしたが、ギルベルトは離さなかった。
「泣くんならもう聞かねぇよ。だから、泣くんじゃねぇ。」
彼女の頭をそっとなでて言えば、が息を呑んだのがわかった。
布越しに伝わる体温は熱くて、でも正装のために布が厚くてもどかしい。どうしたらよいのかわからな
いとでも言うようにの手がさまよって、置き場を失い、自分を抱きしめているギルベルトの手に添
えられる。
「こういう時は背中に回せよ。」
ムード台無しだろ、とわざと笑って言うと、の手は大きく震えて、本当に恐る恐るギルベルトの
背中に手を回したが、どう置いたら良いのか困ったようにさまよう手が、少しくすぐったかった。
不器用にしか生きられなかったあんたの優しさ