「ふぅん。よく右手と左手が一緒に動くな。」






 ギルベルトはがピアノを弾くのを後ろで見ていたが、思わずそう言ってしまった。






「・・・・普通、ですけど。」







 は少し小首を傾げて言った。

 女が音楽を学ぶというのはこの時代にしては珍しいことではない。とは言う。確かにフリードリ
ヒもフルートがうまい。ただ、ギルベルトはと言うと、長く生きている癖にろくに芸術など出来た試しが
なかった。

 戦いだけを目指した無骨な国だ。この手はいつでも血にまみれていたし、それを疑ったこともない。だ
が、それ以外のことはどうにも駄目だった。長く続かない。戦いは勝って、誇ることが出来る。生き残れ
るが、音楽は結局生き残れない。

 この間土地を奪ってやった隣国のすました顔の男を思いだして、ギルベルトは思った。







「音楽、嫌いですか?」







 はおずおずとギルベルトを見て尋ねた。






「なんでだ?」

「だって、執事の方が、この部屋はほとんど使われないって。」






 ピアノやらハープやらが置いてあるこの部屋は前の家主の置き土産で、実際的にギルベルトが弾いたこ
とも使ったこともない。部屋数はたくさんあるのであえて楽器を捨てさせるのももったいなくて、置いておい
たのだ。執事がそう言った経緯をに語ったのだろう。






「別に嫌いって訳じゃねぇな。ただ、俺はやらねぇってだけ。」






 ギルベルトはピアノの前に座るの椅子をぐらぐら揺らしながら言う。椅子が軋むのは、あまり使
っていないからだ。当然ピアノなども調律などギルベルトが来てからしたことがない。だからそのままで
は弾けるはずがなかったのだが、先日、彼女がギルベルトにお願いに来たのだ。

 調律をして欲しいというのが、彼女の小さな初めてのお願いだった。というのも、最初は我慢して弾い
ていたらしいのだが、やはり気になってしまって仕方が無かったようだ。それでも気兼ねしいしいお願い
に来た。その【お願い】を話すまでに無駄話が一時間、よどみがおそらく全部で30分ほど、遠慮が10分、
本題が5分と言うところか。ひとまず頼みにくかったようだ。そんだけ時間を掛けて一体何を頼みたいの
かと思ったら、単なるピアノの調律で、身構えたこちらが馬鹿みたいだった。





「それに聞くのは嫌いじゃない。たまにフリッツのフルートも聞かせてもらってる。」

「あぁ、噂はお聞きしています。大変お上手であられると、」







 は笑って楽譜をめくる。

 執事はのピアノがかなりの物だと言っていた。それはたまたまこの間屋敷を訪れたフリードリヒ
もだったから、間違いないのだろう。






「おまえ、いつからピアノやってんだ?」






 ギルベルトは何気なく尋ねる。






「覚えていません。お母様が、よく聞かせてくださったんです。」






 は笑って自分の両手を重ねてみせる。小さな手が奏でるピアノは繊細で、ギルベルトが聞いても
上手だと思う。






「母親、あぁ、亡くなった・・・・」





 ギルベルトは寂しげな菫色の瞳を眺める。






「はい。お母様は大変お上手でよくわたしに聞かせては教えてくださいました。」







 菫色の瞳を細めて、は呟くように言った。


 の母親はアプブラウゼン侯爵家の後妻で、が12歳の時に亡くなったと聞いている。父に疎
まれていたためは遠縁に当たるフォンデンブロー公爵の元に身を寄せていたのだ。






「母親は、優しかったか?」

「はい。とても、とても、わたしを愛してくださいました。ただ・・・・」








 の表情が曇り、口を紡ぐ。そして俯けば、もう言葉は出てこない。

 それは彼女にとって複雑な、悲しみを含む内容があることを示していた。全部はき出せれば、きっと少
しは楽になるのではないかと思うけれど、無理矢理聞き出すようなまねはやはり流石にギルベルトといえ
ど出来なかった。でも、その言うことの出来ない内容が、彼女の心にかげりを産み、そして、俯かせる原
因となっている。

 プロイセンと言っても、ギルベルトは長く生きてきた。本当に長らく戦って生きてきた。なのに、ほん
の十数年生きた彼女の傷に触れることもその傷を癒すことも出来ない。自分はなんの遠慮もなく戦いを
産んで敵を打ち倒してきたのに戦いに追って傷を負った彼女を癒す術は何も持ち合わせていないのだ。

 声のかけ方すら分からない。なんて、ふがいのない、






、」






 ピアノを弾き始めていた彼女の名を呼ぶ。






「はい?」







 音がぱたりと消えて、彼女が振り向く。その菫色の瞳にあった悲しみは消え、ただギルベルトだけが映
る。






「ここは、好きだと、おまえは言ったな。」

「はい。」






 は笑う。

 前にはプロイセン王国が好きかどうかは分からないが、この屋敷は、バイルシュミットの家は好
きだと言っていた。ギルベルトの家、ホーム。国。それは自分を好きだと言われているのと同じで、とて
も嬉しい。彼女はギルベルトが【国】そのものであることは知らないけれど、その気持ちを彼女に伝える
のは恥ずかしい。だから、





「なら、此処にいれば良い。ずっと・・・ここが、おまえの居場所だ。」






 ギルベルトはゆっくりと彼女を抱きしめる。抱きしめられることにも、笑いかけられることにも慣れて
いない、まだ14歳の少女。

 所在なさげに俯いて、居場所などないとただ忍の字で耐える彼女を見ていた。仕方のないことだと諦め
て、例え何を言われても黙っている彼女が、その黙っている理由は、居場所がないからだ。何かを言えば
居場所がなくなってしまうから。





「い、ばしょ、ですか?」






 は小首を傾げて、前に言われたとおりギルベルトの背中に手を回す。






「あぁ、おまえはここにいて、良いんだ。」







 ギルベルトはの小さな体を抱きしめて、背中を撫でる。

 有益な慰めの言葉も、傷のいやしかたも、戦いばかりをしてきたギルベルトには到底見当もつかない。
それでも、与えて上げられる物がある。 


 数十年、否、ずっと。


 プロイセンがあり続ける限り、この土地がある限り、何度生まれ変わってもには居場所がある
自分は人間と違って、彼女の居場所であり続けることが出来る。





「わ、わたし、は、そんなこと、言って頂ける、たちばの、人間では、ないんです、」





 の声が震えて、体が震えて、小さく、途切れ途切れの言葉を呟く。泣いているのだろうか。抱き
しめていて顔が見えないから、わからない。それでも縋るように掴まれた服が彼女の心情を示している。





「ちいせぇ価値観振り回してんじゃねぇよ。それがなんだってんだ。関係ねぇ。」






 ギルベルトにとってみれば、身分とか立場とか、そう言ったものは一時の幻想に過ぎない。国の中です
ら移ろうものなのだ。

 ましてや国であるギルベルトにとっては、彼女の一生すらも一瞬で、彼女がこだわるものも所詮は数十
年後には消えてなくなる物だと知っている。時はすべてをさらっていく。そんなものにこだわらずに、今を
楽しめば、良い。大切にすれば良い。





「細けぇことは気にすんな。要するにここが居場所ってのが不満って事だな?」





 意地悪く尋ねれば、は顔を跳ね上げて首を振る。





「ち、ちがいま、す。それは、それ自体は、本当に、嬉しくて、わたし、」






 一生懸命漏れた嗚咽を抑えながら訴える。ゆらゆら揺れる菫の瞳が、必死にギルベルトを引き留めよう
とする。それでよいのだ。短い人生求めたい者を求めなかった方が負けだ。





「おまえがおまえである限り、おまえの居場所はここだよ。ばーか、」






 抱きしめる腕に力を込めれば、は少し苦しそうに身を捩った。

 一瞬見えた長い睫毛は涙で濡れていて、ギルベルトは少し身を離してそっと目尻に口付けると、
は本当に恥ずかしそうに頬を染めた。










 
君が奏でた歌の意味を知らない