結婚は10月の麦の刈り入れが終わってからと定められた。

 はもともとオーストリアの領土であったアプブラウゼン侯爵領に生まれたためカトリックであった
が、プロイセンのギルベルトに嫁ぐに当たり一応プロテスタントに改宗することになった。元々
には大きな信仰心などなかったようで、ギルベルトが言うとこちらが拍子抜けするほどあっさりと改 宗し
た。

 ただし、一つ問題にされたのが婚資だった。の父であるアプブラウゼン侯爵はこの結婚に反対で、
結婚に当たり持参金は一切出さないと言ってきている。ギルベルトにとってはそれは些細なことであった
が、 には衝撃だったらしく、泣きそうな顔で俯いていた。それでも父親を嫌わず責めず、仕方が無い
と言うのだ から、ギルベルトにとっては理解できない精神性の持ち主だった。



 わめけよ。泣けよ。不満だって訴えろ。



 そう思っても言っても、は俯くばかりでなかなかその理由を話してはくれなかった。それでも誰
が見てもとギルベルトの関係は、がすぐに退くので円満で、非の打ち所はなかった。ギル
ベ ルトには少し物足りなかったが。

 女遊びをして、わかるように痕を残したところで、彼女は何も言わない。婚約者の浮気をとやかく言っ
てもよいはずなのに、と、思ったが、はそれを見ても日頃少ない口数がますます減って、俯いただ
けで何も言わなかった。





「負い目、か。」





 持参金を出さないとアプブラウゼン侯爵が言ったとき、はギルベルトに婚約をやめた方が良いと
訴え、別に気にしないし婚約を変えない旨を伝えると、泣きそうな顔で謝り続けた。

 金は軍事にとって重要なものだが、自分の生活費は基本的に国王と軍隊から出ているし、贅沢な暮らし
を望んでいるわけでもないのだから、彼女が持参金を持ってこなくても問題ない。貴族の間では持参金の
額も重要だと聞いているが、人間ではないギルベルトにとっては自分が高い位を持った貴族として遇せら
れていても、やはりそんなものに価値を見いだせなかった。

 ただ、は違うらしく、本当に申し訳なさそうだった。

 立場の違いが、の言葉を奪うのだろうかとも、思う。ギルベルトは知る人ぞ知る国の化身で、将
軍職に就いた公爵の地位を与えられている。戦いの時代と言うこともあって、ギルベルトは国王ともうま
くいっているが、彼女にはなんの地位もない。出自とて援助が得られないならばないも同然だ。正直ギル
ベルトに出自などないも同然なので、ギルベルト自身は気にならないが、彼女は酷く気にしているのだろ
う。






「ひとり、か。」






 暗くて地味で、たまに鬱陶しい彼女は、ずっと人から疎まれて生きてきたのだろう。だから俯いて誰も
見ないようにする。傷つけられたくないと、俯く。






「こっちを、見ろよ。馬鹿。」





 必要としてくれない父親とか、疎んでいた周りとか、もうそんなものは見なくても良い。ただ、こちら
を見てほしい。まっすぐ、俯かずに、こちらを。

 ギルベルトはベッドに転がって天井を見上げていたが、ごろりと横向けに体勢を変えた。



 こんこんと少し使用人よりもゆっくりな、のんびりとしたノックが聞こえる。それは廊下側の扉ではな
の部屋側の扉からだった。


 の部屋とギルベルトの部屋は隣同士で、廊下に出なくても中で繋がっている。






「どうした?」






 ギルベルトはベッドから飛び降りて扉を開くと、やはりがいた。シャワーを浴びていたのか、少 し
だけ亜麻色の髪は濡れていたが、ドレスに関しては寝間着のような薄い布の上に、上着をきちんと着
て いた。





「良かった・・・起きてらしたのですね。」

「あぁ、どうした?こんな夜更けに。」






 もう11時などとうにまわっている。は比較的早寝早起きで、ギルベルトは先ほど帰ってきたばか
りだが、彼女はいつも寝ているはずだった。

 ギルベルトがの部屋に入って勝手に入り浸ることはあっても、は用事がないとギルベルト
の部屋を訪ねない。今日は遅く帰ってきたこともあって彼女と顔を合わせていなかったから、ギルベルト
を待って眠っていなかったのかと思うと、少し可哀想に思った。もう少し、女と遊んでいないで早く帰って
これば良かった。


 ひとまずを自分の部屋に入るように促すと、は失礼しますと律儀に頭を下げた。ギルベル
トは近くのベッドの上にあった紅茶のカップを手に取った。既にお茶は冷えている。





「あの、えっと、お、お手紙が、来まして、」

「手紙?」

「は、い。アプブラウゼンの父から・・・なんですけども。」





 はうつむき加減のまま、手紙をぎゅっと握りしめる。伏せられた菫の瞳は、酷い愁いを帯びて
た。






「なんて?」

「帰って、くるように、と。あの、なので、えっと、」

「は?」






 意味が分からず、が握りしめている手紙を取り上げる。






「あ、だめ、」






 は顔を上げてギルベルトから手紙を取りかえそうとするがギルベルトの方が彼女より遙かに背
が高い。当然取り返せるはずもない。

 人の手紙を盗み見るのは流石に抵抗はあったが、読み進めていけばいくほどギルベルトの表情は自分
で分かるほどに険しくなった。そこに書かれていた内容は到底父親から娘へと向けるような物ではなく、
への叱責だった。将軍をたぶらかした、母親の血がまざっているから、持参金は一切出さない、は
やく帰って来て事情を説明しろなど、えんえんと叱責した手紙を、ギルベルトはぐしゃりと潰す。




「あ、」





 は掠れた声を出してギルベルトを見上げたが、よほど怖い顔をしていたのだろう。すぐに彼女は
俯いてしまった。





「ご、ごめんなさい。ただ、帰る、ようにと言われていて、だから、」






 は意味の分からない謝罪を口にしながら途切れ途切れに言う。

 そもそもの母親が死んだ途端、を領地から放り出したのは父親であるアプブラウゼン侯爵
だ。だからこそは母親の縁を辿ってフォンデンブロー公国に身を寄せていた。14歳になっても嫁入
り先の一つも探さず、放って置いた娘が結婚するとなったらなったで、持参金は出さないとほざいたくせ
に、干渉だけはするのか。ギルベルトはこの男の醜悪さに嫌気がさした。

 もともとオーストリア継承戦争の折から、彼はオーストリアの騎士であったにもかかわらず、劣勢が
判明するとすぐにプロイセン王国に寝返った。その根性の汚さも気にいらなかったためますます嫌いになる。





「なんで、帰る必要がある。」






 ギルベルトは腕を組んで彼女を睨み付けた。はびくりと肩を震わせて、でも、と呟いた。

 どうして、それほど自分を嫌っている父親の言うことを聞くのか。ギルベルトは不満であれば誰だって
殴り飛ばす。なのにはすぐに周りに従う。






「でも、お父さま、ですから、」

「あんなぁ。父親だろうと関係ねぇよ。それにな、おまえはもう俺の婚約者だ。」






 すでに公示してあるのだから、決定事項で、それは父親であるアプブラウゼン侯爵でも覆せない。なぜ
ならそれは国王の命令でもあるのだから。






「で、すが、」

「ぐずぐず言うな。ひとまずアプブラウゼンへの帰還は認めない。」






 ギルベルトは声音が厳しくなったぶんだけ、の頭をぐしゃりと撫でる。は顔を俯かせたま
ま小さく肩を震わせた。






「でも、とう、さまは、・・・・とても怖い、ので、」







 何かをされたことがあるのだろうか。怯えているように見えた。ギルベルトはの小さな肩を自分
の方に抱き寄せ、彼女の頭を抱える。






「大丈夫だ。俺様を誰だと思ってる。これでもバイルシュミット将軍閣下だぞ?」






 この国では絶対に揺るぎない存在だ。この国の中にある限りは絶対にギルベルトと共に人々は歩まなけ
ればならない。

 彼女を傷つけることなど、許したりはしない。


 亜麻色の髪をそっと、何度も撫でれば、が縋るような目を自分に向けてきた。菫色の瞳は涙なの
か、違うのか、ゆらゆら揺れている。



 それは、あまりにも弱い野の花によく似ていた。













 
いらないものを数えない で