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乳母としてルイーズ、女官としてエミーリエがマリアンヌに加わると、の周りは急に賑やかになった。
「様、見てください、見事な薔薇ですわ。」
ルイーズがくすんだ金色の髪を揺らしてやってきた。腕にはたくさんの薔薇を持っている。
「どちらから?」
「カークランド卿ですわ。気が紛れるようにと、」
紫色の薔薇はおそらくこの間の防衛協定の締結の記念にと、アーサーがイギリスから持ち込んだものだろう。は美しい色合いの紫色の花弁にそっと手で触れる。とても良いにおいがした。
「綺麗ね、飾りましょう。」
が立ち上がろうとすると、エミーリエが首を振った。
「わたくしが、やりますわ。お座りになっていてください。動くのもつらいでしょうから。」
柔らかにエミーリエが深い紺色の瞳を細めて言った。
すでにのお腹は驚くほどに大きくなっていた。動くのも重たいし、仰向けに寝るとまるでお腹の上に小麦の袋でも乗っているかのようだ。正直つらい。その上お腹の中でぐるぐる動いているのがわかる。ギルベルトが手をお腹に当てると、そこを蹴ったりということもしていた。
正直、日常生活すらつらい。
「・・・最近、よく眠れないし、」
はぶつりとこぼして目をこする。お腹で子供が動く上に、寝苦しいのだ。それなのに少し動くだけで本当に疲れる。
「あと、2か月の我慢ですわ。それに、とてもお元気なお子様ということです。よく動くのは。」
を宥めるようにルイーズがのお腹を撫でる。するとまた子供が動いた。本当に彼女の言うとおり元気な子供だ。
「初めての妊娠は不安ですもんね。わたくしなんてさんざん旦那に当たりましたわ。」
マリアンヌは肩をすくめてさらりと言った。
彼女は元々フランス貴族で、プロイセンの軍人である今の夫に嫁いだ。子供は4人いるので妊娠も慣れっこで、今年30歳になったところだが、仲むつまじくて有名だった。
対してルイーズが一番年下で24歳、二人の子供がいる。エミーリエは26歳で3人の子供がいる。ルイーズの夫はつい数ヶ月前、アメリカ戦線で亡くなった。エミーリエは離婚協定中だ。
「わたくしは最初の出産は母がつきっきりでした。」
ルイーズが穏やかに笑うと、エミーリエも同じように頷く。しかし、の母は12歳の時になくなっている。は母の援助が望めない。だからこそ、すでに既婚、子供のいる女官は重要だった。
「・・・はぁ、怖い、」
はお腹を撫でながら小さく呟く。
出産は酷く痛むと聞いているし、初めてのことなので大丈夫だろうかと不安になる。皆が期待している中できちんと生めるのだろうかということも不安だった。流産や死産はこの時代よくあることだ。だからこそ、なおさら。
「あまり、気におうてはなりませんよ。大丈夫です。」
ルイーズはゆったりと笑って、の手を握る。
「お子様は驚くほどお元気ですもの。」
くるくると回る子供を医師はとても元気だと言っていた。検診の際も本当に何の問題もない状態で、逆に毎日来てくれている医師に申し訳ないくらい、何もなく元気だ。
「それに、バイルシュミット将軍のお子。きっとお強いはず。プロイセンきっての将軍ですもの。」
エミーリエがくすくすと笑うと、マリアンヌが自信たっぷりに頷く。
「そうですわ。あのバイルシュミット将軍のお子ですもの。きっとしぶといですわよ。」
「おい、聞き捨てならねぇな。マリアンヌ。」
いつから聞いていたのか、ギルベルトが部屋の扉のところにもたれてマリアンヌに言う。
マリアンヌはぺろりと舌を出してみせたが、振り返るときには取り繕って済ました表情のまま、ギルベルトに頭を下げた。
「これはバイルシュミット将軍、お妃様のお見舞いですか?」
「あぁ、ってかマリアンヌ。おまえ、いらねぇことに吹き込むんじゃねぇぞ。」
ギルベルトと結構幼い頃から女官として宮廷にあがっていたマリアンヌは長らくの知り合いだ。いろいろと危ないことも知られているのだろう。
ギルベルトが言うと、マリアンヌは「さぁ?何のことでしょう」ととぼけて見せた。
「、大丈夫か?あんまり食ってなかっただろ。」
が座っているカウチの隣に来て、ギルベルトはを抱き寄せた。そしてお腹に触れる。すると、とん、とギルベルトの手を子供が蹴ったのがわかった。
「よく蹴るな。男の子かな。」
「男の子が、よろしいのですか?」
はちらりとギルベルトを見て尋ねながら、当然だと自分で勝手に納得する。
この子供はの子供だと言うだけでフォンデンブロー公国の地位を持つ。男の子であればのように継承権でもめることも減るし、そりゃ楽だろう。だが、ギルベルトは全然違う答えを返した。
「どっちでも良いぜ。でも、に似てると良いかな。」
ギルベルトの答えに、はきょとんとする。
「だって、俺に似ててわがままで、独占したがってもやだろ。ひとまず、おまえはしっかり食えよ。体重の増え方が悪いって医者が心配してたぜ。」
が常に検診を受けているのはフリードリヒの医者で、おそらくギルベルトにも詳細に告げられていることだろう。少し恥ずかしくて、なんだか情けなくて俯くと、ギルベルトがこめかみに口づけてきた。
「別に怒ってるわけじゃねぇぞ。心配してるんだ。」
優しく髪の毛を撫でられると、とても安心する。はギルベルトの胸に頭を預けるようにして大きく深呼吸をした。
「先ほど、少し、果物を口にされましたよ。」
ルイーズが穏やかにギルベルトに報告する。
「そうか。そりゃ良かった。あと、夕食用に鴨を捕ってきたから、体調が良ければ一緒に食べような。」
「鴨・・・?」
は肉の中では鴨が好きだ。肉厚で脂肪分が多いので疲労回復に効果があり、また、妊娠中に鉄分を多く含んでいるため、食物としてはすすめられた。
「また、とってきて、くださったんですか?」
「この時期渡り鳥がたくさんいるからな。」
ヴァッヘン宮殿の前の湖では、多くの渡り鳥が冬を越す。近くにほかの湖もあるので、狩猟は盛んだ。でもは素直に自分のために彼がわざわざ狩猟に出てとってきてくれたと言うことが嬉しかった。彼はが食事をしなくなると、すぐに鴨を捕ってきて食卓に並べてくれる。
はもともと鴨のローストが好きで、あまり脂っこいソースは今は好ましくはないが、さっぱりとした味付けにすると体調が悪くても必ず多少口にすることができた。ギルベルトはそのことをよく知っている。
「ありがとうございます。」
は嬉しくて、なんと表現して良いかわからなかったが、ギルベルトに心から礼を言った。
「無理はするなよ。おまえはいつも我慢しすぎだからな。心配してるんだぜ。無理はしなくて良い。」
ギルベルトはに優しくささやく。
彼は最近、全くといって良いほどに怒らない。もともとのすることに何か言うことは少なかったが、最近なおさらだ。苦しくて泣いてしまったりすることもあるが、そういう時は本当に優しく慰めてくれる。
「何か困ったことや、つらいことがあったら、すぐに言えよ。できるだけのことは、してやるから。」
髪の毛をさらりと撫でられて、は泣きたいほどこみ上げてくる幸せに彼の胸に顔を埋めた。
なんて、幸せなんだろう。
表現の仕方がわからなくなるほどに、彼は優しい。愛されてると、はそれだけは不安に思ったことがなかった。
与える人