軍事大国プロイセンの化身であるだけあって、ギルベルトは戦いに関することはきわめてうまかった。
フォンデンブロー公が歴代住まうヴァッヘン宮殿の前の湖で狩りをすることは許されないが、近くにいくらでも湖があり、この時期飛来する鴨を撃ち落とすことはギルベルトにとって造作もないことだった。
雪に覆われた白銀の世界の中で、遠く鴨の声が聞こえる。
無意味にたくさん打ち落とすことはしないが、ギルベルトが銃を放つとすぐに猟犬が鴨をとりに行った。芦が生い茂る湖畔を歩いていくと魚もいる。マスなどもおいしいとは言うが、は最近においのきついものがだめだった。
「仕方ねぇよな、」
ギルベルトは北風に消えるような言葉を呟く。
の体調はあまり良くない。つわりが終わってしばらくはよく食事もとったのだが妊娠7ヶ月にさしかかる最近では、朝に泣き出すこともあった。どうも母親ではなく赤子の方がずいぶん元気らしくて、胎動が酷く痛いらしいのだ。また、食事をすると胃が痛いらしく、食事自体を嫌がるようになっていた。
ギルベルトや新たに増えた女官たちが宥めると、わがままだと思って食べ出すのだが、あまりにつらいようで、とうとうこの間食事中に席を立って部屋に閉じこもって出てこなくなった。
は真面目で気が弱いため、あまり強く言えないし、すぐに退く。基本的に気を遣うタイプだ。本当に痛みが酷く、また医師曰くお腹が大きくなって胃が圧迫されているのでなかなか食事ができないのも仕方ないのだという。だがにとっては必要だとわかっているのに、何で食事なんて簡単なこともできないんだろうと、情けなくなってしまったようだった。また、周りからも言われるから、懸命に努力はしていたのだ。
悪い体調を抱えながら初めての妊娠の不安とストレスには精神的に精一杯だったらしく、部屋に閉じこもって全く出てこなくなってしまった。誰にも会いたくないからと命じられれば女官はどうしようもない。
結果的に、ギルベルトと女官はフリードリヒの医師に怒られた。
『様は様でがんばってらっしゃるのです。あなた方はそれを慰めるのが仕事だと思ってください!』
医師ははっきりと言い切った。
要するには苦しいのだから、彼女がすることに文句をつけるな。彼女の苦しみを和らげるために努力するのがギルベルトたちの仕事であり、義務であると、医師はそう言ったのだ。
『ごめんな、。』
結局ギルベルトが宥めにいき、それからはすべての自主性に任すことにした。どちらにしろ、は言わなくてもしなければいけないことはわかっている。その上にまだ何か言えば、にとってそれはストレスになるだろう。だから、言わない方が良いと言われて、ギルベルトは言わないことにした。
相変わらずは食事ができない時も多い。そういう時と腹の子供は大丈夫だろうかと、ギルベルトだって不安になる。だが、今までのようにに食べろとたしなめるのではなく、の好きなものをできる限り食卓に並べることにした。特に鴨はが好む食材で、少しは食が進むかもしれないと思った。
それが、ギルベルトにできる唯一のことだ。
「ほぉ、うまいじゃねぇか。」
考え込んでいたギルベルトだが、後ろを振り返ってみるとアーサーがいた。
イングランドの化身だ。あまり性格の良くない奴だが女性と子供には優しくて定評がある。ただし、お互い同族嫌悪かはたまたただ嫌いなだけなのか、好ましいと思ったことはなかった。特にが仲良くするのでなおさらだ。
「おまえよりかはな。」
鴨を持って帰ってきた犬の頭を撫でて、ギルベルトはアーサーに言った。
「・・・俺だってうまいんだぞ。」
「へぇ、そりゃ知らなかったぜ。おまえ、海以外では役立たずだと思ってた。」
案外イギリスは陸戦に弱い。そのことを揶揄してやると、アーサーは些か気分を害したようだった。だが、すぐによによとした表情に戻った。
「なんだよ。気色悪ぃ、」
「良かったじゃねぇか。子供。」
アーサーが笑いながら言う。
「・・・まぁな。」
ギルベルトはアーサーの手前別になんでもないように答えたが、内心顔がにやけそうだった。
良かった、というか、本当に嬉しかった。
国である自分が人とでも子供が作れることは知っていたが、多くの場合人と国というのはうまくいかないし、まさか自分に子供ができるなんて夢にも思わなかった。ましてや軍事一辺倒で生きてきた自分に子供など、望んだこともなかった。
ただ、心配もある。
「・・・人間は、すぐ死ぬから、正直心配は、してるさ。」
妊娠で死んでしまう人間はたくさんいる。そんな話をあまりにたくさん聞いていたせいで、ギルベルトはの妊娠をある意味では望んでいなかった。が死んでしまう可能性は、少しでも小さくしておきたかったのだ。
それでもには子供が必要で、ギルベルトもほしいと思った。彼女との子供なら、のどから手が出るほどほしかった。
だが、実際に彼女が妊娠してみると、喜びは徐々に心配の方に浸食されていった。弱り切っているを見ていると哀れで、可哀想で、彼女は若いのだから、もう少し妊娠は遅くても良かったのではないかと思う。
「本当に、俺らの長生きって何のためにあるのか、若干わかんねぇよ。ちっとも役に立たねぇ。」
が苦しんでいるのを見ても、ギルベルトは何もしてやれない。
多分、女官たちの方がギルベルトよりもずっと役に立つだろう。千年以上生きてきたところで、ギルベルトが持ち得ないものを、女官たちは持ち、またも持とうとしている。多分それは人の営みで一番大きいもの。必要なものだ。
国であるギルベルトたちの、知らないもの。
「俺ら、なんもしらねぇんだなって思うぜ。しらねぇことばっかり、」
今まで何して生きてきたって言うくらい、本当に知らないことばかりで、ギルベルトは医師や子供を持つ将軍たちに教わることばかりだった。そして、してやれるのはを安心させられるように、彼女が不安に思わないように、心配りをするだけ。その心配りすらろくに思いつかないのだから、困ったものだ。
「いいんじゃねぇの?」
アーサーは少し自嘲気味に笑って、遠くを見つめる。
鴨が大きく鳴いている。近くでつがいの白鳥が踊っていた。白鳥は自らの伴侶を一度決めるとなかなか変えないのだという。
「そうやってさ、おまえは知っていくチャンスがあるわけだよ。次に子供ができた時は、きっと子持ちの奴らと同じように話せるんだぞ。」
今は初心者でも、多分次の子供が生まれる時には、考えていた無力感もなくなっていくだろう。ギルベルトは今からその貴重な体験を得ることができるのだ。
「俺は、おまえがうらやましいよ。」
人として生きることができたら、
アーサーも、多分国の誰もが一度は考えたことだろう。当たり前のように結婚して、子供を作って、育てて。
ギルベルトとて、人としての生があるわけではないから、人と同じ寿命を歩むことはできない。だが彼は人として結婚し、今子供を得ようとしている。その経験は、ほとんどの国ができなかったものだ。
得ようとしても、なかなか得られないものを、彼は得ようとしている。その不安も、ふがいないと思う心も、アーサーからしてみれば酷くうらやましい。多分、アーサーが一生かかっても味わう可能性の低いものだ。
「大切にしろ。絶対に、なくすなよ。」
アーサーは瞼を閉じる。瞼の裏にいるのは自分が殺した、フランシスの昔の大切な人。
うまくいったかもしれないし、あれはまだ恋ですらなかったのかもしれない。だが、その芽すらもつぶしたのは、アーサーだった。
愛し合うことは、悲劇じゃないと、信じさせてほしい。
「ばっか、俺はあいつを、愛してるぜ。俺がなくなってもいいくらいに。」
ギルベルトはアーサーの背中を叩いた。
言われなくてもわかっているし、なくしたりなんて絶対にしない。ギルベルト自身もわかっている。愛しているのだ、深く。
後戻りは、もうできない。
禁忌に触れた僕等