1755年の春は穏やかに始まった。




「とうさまのおかえりだ!」





 ユリウスはベルリンの屋敷の窓から外をのぞいていたが、はじかれたように勢いよく振り返って、外へと飛び出していく。はそれを見守って小さな笑みを漏らした。

 5歳の息子フリードリヒ・ユリウスはやんちゃ盛りで甘えん坊だ。そして両親であるとギルベルトのことをとても慕っている。勉学にも秀でており、教師たちが舌を巻くほどだったが、賢いだけに最近はいたずらを覚え、女官たちを悩ませている。

 は近くにあった書類を少し片付け、ギルベルトを出迎えるために廊下へ出た。




「お疲れ様です。」




 廊下に立っていた衛兵が笑った。それにも笑顔で返しながら、階段の方へと歩いていく。螺旋階段を下りた広間にはギルベルトがいて、執事と話している。おそらく屋敷にいなかった間の報告だろう。だが、ユリウスを見ると彼はすぐにユリウスを抱き上げた。




「お帰りなさい、」




 は上から声をかけて、ゆっくりと螺旋階段を下りていく。

 綺麗な彫刻が施された螺旋階段の手すりに手を沿わせて下へとおりると、執事がうやうやしく頭を下げた。この冬、ギルベルトはプロイセンのシュレジェン領近くにある駐屯地を訪れていた。そのため、長い間離れていた。会いたい気持ちは、息子であるユリウスと一緒だった。はギルベルトの元へとはやる心を抑えて歩み寄る。




、」




 ギルベルトは片手でユリウスを抱いたまま、の肩を抱く。




「ただいま。」





 軽く頬にキスをしてギルベルトは笑った。も精悍な顔を見上げて笑い返す。




「えーぼくも、とうさまぼくもっ、」

「おまえなぁ、」




 ユリウスがねだるから、ギルベルトは息子の頬にもキスをした。ユリウスは久方ぶりの父に興奮した様子で抱きつく。

 寂しかったのだろう。

 は後ろから息子の銀色の髪をそっと撫でつけてやった。しばらく家族で触れあっていると執事は「後ほど」と微笑んで話を切り上げ、場を辞した。




「道に危険はございませんでしたか?」

「ねぇよ。いつもプロイセンとシュレジェンは安定している。安全な旅路だった。」




 ギルベルトは快活に笑っての頬を撫でる。

 だがこの時代、盗賊や夜盗もいる時代だ。ヘタをすれば殺されることだってあり得る。プロイセン王国もフォンデンブロー公国もともに安定した中央集権国家だが、それでも危ないことに変わりはない。




「ご無事で良かった。」





 が言うと、ギルベルトは困ったような顔で肩をすくめた。




「おまえは心配性だぜ。そう思うよな、フリッツ・ユーリ、」

「うん!母さんはしんぱいしょうだよ。」






 ユリウスも父親に全面的に同意して大きく頷いて見せた。




「この間ひとりで大きな馬に乗ったら、血相かえてとんできたんだ。」

「そ、それは・・・あなたが、勝手に、」





 失態の告げ口に、は慌てて弁解する。

 ユリウスはすでにある程度乗馬はできる。だが、今まで乗っていたのは大人の大きさの馬ではなくて、ポニーのような小さな馬だった。まだ子供なのだ、それで事足りるし、危ない。はそう考えていたのだが、ユリウスは大人が乗る大きな馬に興味があったようだ。

 傅育官の目を盗んで大きな馬の上に、台を持って行って上ったのだ。それも彼は小さい体ながら見事に馬を操って見せた。傅育官たちは皆驚きに目を見張るしかなかったが、真っ青になったのはだ。

 はそもそもあまり乗馬が上手ではなく、馬に対する恐怖感が大きい。そのためユリウスの乗馬に対しても慎重だったのだが、ユリウスが大きな馬に乗っているのを見て卒倒した。




「あー。聞いた聞いた。」





 先ほど執事から報告を受けたのだろう。ギルベルトはにやっとわらってを見やる。

 倒れたに驚いたユリウスも馬上で泣きだし、傅育官や女官はふたりを宥めるのにかなりの時間を要したということの顛末はの失態だった。

 が目を伏せて頬を染めると、ギルベルトは笑っての唇をついばむように重ねた。




「大変だったな。」

「・・・大変って、言うか・・・その。」




 があまりに驚いて卒倒してしまっただけだが。まさかまだ5歳のユリウスが大人用の大きな馬で乗馬するなど、考えたこともなかったのだ。自分が乗馬が苦手なのでなおさら。

 ちなみにがまともに馬に乗れるようになったのは10歳を過ぎた頃だ。長らく練習だけはさせられていたのだがろくすっぽ上手にならず、今でも全速力で馬を走らせれば落ちるかもしれないと自分でも思う程度の腕前しかない。

 多分、ユリウスはギルベルトに似たのだろう。ギルベルトは昔から乗馬が得意で、狩猟などにも積極的に参加する。は息子が自分のように引っ込み思案でなくて良かったと心から思っていた。

 いたずらっ子だが基本的には快活で明るく、臣下からの受けも良い。ユリウスはふたりの息子と言うだけでなく、フォンデンブロー公国の跡取りだ。統治者となって行くにつれて持ち前のわがままは不安だが、それでもギルベルトがいないことに不安になるを思いやる優しさがある。




「おまえすっげぇな、もう馬に乗れるのか。」




 ギルベルトがユリウスの頭をかき回すように撫でる。






「そうだよ!だからこんど狩猟につれてってね。」




 ユリウスは前からギルベルトが狩猟に行くのをうらやましがっていた。

 もちろんギルベルトは息子を連れて行くのだが、流石に鹿などを追う時に息子を自分の馬に乗せて全力疾走する訳にもいかない。ユリウスが落馬する危険性がある。だからついて行っても待っていることしかできないことをユリウスは歯がゆく思っていたのだ。

 ギルベルトは息子に精一杯とも思えるほどの愛情を注いでいる。たまに傅育官に甘すぎると言われるほどに、かわいがっている。は父に愛されたことはないから、ギルベルトがユリウスにどのように接するのか、よくわからなかった。だが、彼はが想像する理想の父であり、またユリウスからの尊敬を集めている。




「それにしても本当に、こんなにはやく馬に乗れるようになるとは思いもしませんでした。」




 は小さく息を吐く。

 あまりに歩むのが早すぎて、不安になるほどにユリウスは賢い。生き急いでいるのではないかと心配にすらなるが、ユリウスは素直にギルベルトを目標とし、自らの能力の成長を喜んでいた。




「とうさまは、いつ馬に乗れるようになった?」




 ユリウスが無邪気に尋ねる。ギルベルトは少し考え込むようなそぶりを見せてから「忘れちまった、昔のことだ」と答えた。

 彼はいつもそうだ。自分の過去をあまり話したがらない。

 そして彼は、が14歳の時出会ってから、全く変わっていない。そのままなのだ。14歳の時と、ほとんど外見年齢が変わっていない。彼は出会った頃、20代前半だと聞いていた。ならばすでに30を迎える年だということになる。だが、未だに彼は。





?」




 黙り込んだせいか、ギルベルトが不思議そうな顔でこちらを見ていた。





「体調が悪いのか?あまり無理はするなよ。」




 ユリウスを絨毯のしかれた床におろして、ギルベルトはを強く抱きしめる。




「いえ、違うんです。幸せだなぁと、思って。」




 は心配事を誤魔化すように、彼の肩に頬を押しつける。

 幸せすぎて困るくらい、今が幸せだ。夢の中にいるみたいだと本当に思うほど、なんの憂いもない。フリードリヒ大王がたてたサンスーシ宮殿(無憂宮)というものがあるが、まさにそんな気分だ。


 だから、たまに怖くなるのだ。ただ、不安になる。




「アーサーが来たんだろ?」




 ギルベルトはの頭を撫でながら、少し不機嫌そうな顔をした。




「えぇ、いらっしゃいましたよ。ビジネスの話だったのですが、」

「ついでにどうせユリウスにプレゼントとか言って持ってきたんじゃねぇの?」

「まぁ、否定しませんけど。」

「なんだよー、まぁ、良いけどな。」




 彼はユリウスの頭をくしゃくしゃと撫でる。久方ぶりの父親の手にユリウスは酷く穏やかな顔で応じた。


 そう、たまに幸せすぎて、疑いたくなる。

  あぁ 瞳が眩むような