夕食を普通に食べただったが、やはり心労が大きかったのだろう。しばらくしてトイレに閉じこもることとなってしまった。
「…大丈夫か?」
ギルベルトがトイレから出てきたに尋ねると、彼女は額を押さえてカウチに座り込んだ。
「大丈夫、です。」
答えは大丈夫だが、顔は完全に疲れ果てている。
「…かあ、さま?」
ユリウスが泣きそうな顔で読んでいた本を置く。ギルベルトは椅子から立ち上がって、の隣に座った。そのままの体を支えるように、自分にもたれさせる。
「ねえ、かあさま、大丈夫?」
ユリウスが心配そうにのカウチの側に来て、とギルベルトに尋ねる。
「えぇ、大丈夫です。」
は気丈にもそう答えた。
「ねぇ、かあさま。あの子、どうなるの?」
ユリウスは少し俯きながら、おずおずと尋ねた。ギルベルトとの二人は顔を見合わせて、それからユリウスを向き直った。
ユリウスが助けたという村で唯一の生き残りの小さな幼女は、村の子供ではないらしい。驚くべきことに、2.3歳なのに文字が書けたのだ。庶民の多くが文字の書けない時代、山には襲われていた小規模な村の他に、小さな城や貴族の館もあった。麓の村の人間曰く、その城の主には小さな娘がいたというから、おそらくそう言うことなのだろう。
傍系だが一応ホーエンツォレルン家に属する一族の出身で、フリードリヒの母親であるゾフィー王太后が預かることになった。名前はエレオノーレ・クリスティーネ・フォン・アンスバッハ。アンスバッハ辺境伯の娘である。
「一応今はゾフィー王太后が預かっていますし、後見人をつけるようですが、爵位自体はおじさんである方が継ぐことになるので、どうなるのか。」
は軽く目を伏せて答えた。
両親がおらず、しかも爵位を継ぐ人間がはっきりしているとなれば、彼女の立場は微妙だ。は12歳の時に母を亡くし、父から疎まれ続けていたため、祖父の兄に当たるフォンデンブロー公に保護されていた。後継者であった直系のカール・ヴィルヘルム公子が亡くなり、たまたまめぼしい跡取りが遠縁しかなかったため、女性のが後継者となったが、男性が優先されるのは当然のご時世だ。
母を亡くしてから一人、肩身の狭い思いをしていたは思うところがあるのだろう。表情は酷く憂鬱そうだった。
「そっか。」
ユリウスは一応幼女が無事だと分かって安堵したようで、小さく息を吐いた。
「そうだな。フリッツに頼んで、引き取っても良いかもしれないな。」
ギルベルトは幼女を思い出してそう呟いた。
どうせ金銭的に困っているわけではないし、一人や二人子供が増えても問題ない。フリードリヒとてむげに扱う気はないだろうから、仲の良いギルベルトのところに預けておけば気楽だと思うかもしれない。
「そうですね。それ、良いかも」
も素直に賛同する。同じように後ろ盾のない境遇である少女を心配していたのだろう。ただユリ
アの声は弾んで嬉しそうだったが、力がない。やはり気分が悪いらしく、軽く口元を手で押さえた。
「それよか、。おまえが全然大丈夫じゃねぇだろ。寝るか?」
「えぇ、ちょっと」
「仕方ねぇな。」
の膝裏に腕を入れて、抱き上げる。そのままベッドに横たえると、「ありがとうございます。」と呟いた。かなり体調が悪いようだ。
「水くらい飲むか?」
「はい。頂きます。」
の返事を受けて、ギルベルトは水差しの水をコップに入れて彼女に渡した。柑橘類の香りが僅かにする水は彼女の気分を少しは払拭したようだ。は少し身を起こしてクッションを自分の背中に挟んだ。
「気分悪い悪いって言ってんのに、何しようとしてんだ、。」
ギルベルトは体調が悪いと思いながら、ベッドの近くのテーブルに手を伸ばすを見て首を傾げた。
「公国からの書類を見なくちゃならないんです。」
は気落ちした様子のまま紙切れを手に取る。
「明日じゃだめなのか?」
「…」
明日でも良いが今日見ておきたいのだろう。は紙の端を手で弄んでから、書類を開いた。
そこに書かれているのは軍の装備の領収書や鉱山の決裁書などだ。基本的に政治は各地方でそれぞれのやり方で選ばれてやってくる代表が集まる議会で決められ、公爵は軍事や鉱山経営のみに権限が絞られているため、有事以外必要なのは軍事と鉱山経営の書類のみだ。
ただし、議会で問題が起きれば公爵が出なければならない。内情把握は不可欠だった。
「…でも、あまり集中できませんね。」
書類を目で追うが、今日の興奮が残っておりだめなようだ。は書類から視線を外して困ったようにギルベルトを見た。
「読んでやろうか?」
「年間宮廷費1万ターラー、軍事費が4万ターラーって読むんですか?」
はくすくすと笑う。
数字項目の羅列みたいなもののため、ギルベルトが読んでもの頭には入らないし、計算を書類も見ずに思い浮かべることは難しいだろう。
どちらにしろ数字は集中できなければ見ていても意味がない。
「じゃあ、もう寝ろ。」
の亜麻色の長い髪をくしゃりと撫でる。するとはされるがままになって、心地よさそうに紫色の瞳を細めて見せた。気分が悪いせいか、やはり顔色は優れない。だが、それでもユリウスが帰ってきて、こうして家族過ごせていることに安心したのだろう。
「あ、ユリウス、もうそろそろ眠らねばなりませんよ。」
は自分がうとうとし始めたのを感じて、ユリウスに口早に言った。
「うん…」
ユリウスはそう頷いたが動こうとはしない。ベッドの近くでもじもじしている。
彼には別の部屋が与えられているし、いつもユリウスは両親とは別に寝ている。元々傅育官や乳母も傍にいるし、が手元で育てることを望んだとはいえ、寝室の隣に子供部屋がある。幼い頃はと一緒に寝ることも多かったが、最近では減ってきていたはずだ。
それを少し大人になったのだと考えていたが、やはり今日のことはユリウスも流石にこたえているらしい。
「よし、おまえも一緒に寝るか。」
ギルベルトはユリウスに近くにあった枕を投げつける。
「…うん!」
ユリウスはそれを上手にキャッチして、ぱっと顔を輝かせて頷いた。そして得意げにばふんと思い切りベッドにダイブする。高級品の天蓋付きのベッドはユリウスを柔らかく受け止めた。
そしてユリウスは着地した体勢のまま這うようにとギルベルトの間に割り込んできた。
「かあさまぁ・・・」
甘えるようにに抱きつくユリウスを見て、ギルベルトは思わず笑ってしまう。
クラウスの話では今日の事態のすべてに慌てたクラウスとは違い、とても冷静に動いていたという。ユリウスは自分の焦燥を表に出すのが苦手なところが確かにある。そう言う面ではと似ているのかもしれない。
つらいとうまく言えないのは、もっとつらいことだ。抱え込んでしまう。
だが、素直に甘えることをユリウスが忘れないなら、きっとつらいことも上手に超えていけるはずだ。
「今日は疲れただろ、」
ギルベルトはユリウスの、自分と同じ銀色の髪を優しく撫でてやった。そして彼の隣に転がる。
「男だからいろいろしてみたい気持ちはわかるけど、あんま危ねぇことはすんじゃねぇぞ。」
何でもやってみたい、見てみたいというユリウスの気持ちは分かる。ユリウスは女官や傅育官から逃げるのを遊びにしているが、好奇心旺盛のユリウスにとっては公子として傅育官が常についている環境はスリルが足らず退屈なのかもしれない。
でも限りある命を生きる限りは、慎重になるべきところも必要なはずだ。
「おまえは、俺たちの宝物だからな。」
何を捨てても構わないほどに、愛おしい。どんな宝石よりもすばらしいたった一つの宝物だ。たとえ何を捨てたとしても手に入れられない、宝物だと言うことだけは、どんなことがあっても忘れないでほしい。
あいしているよ もうもくてきにね