国王主催の狩猟は前日、フォンデンブロー公太子ユリウスの行方不明事件で一度はざわめいたが、幸い彼も見つかり、次の日は予定通りの行程で行われた。
「お天気は良好ですね。」
は木陰に座り、川面を眺める。
ユリウスも見つかり、強盗たちも捕まり、一応村の始末の采配も終わり、の心持ちを示すように驚くべきほどの快晴の空が広がっていた。
まさに狩猟日和と言っても良いくらいだが、当然ユリウスは狩猟をする集団に加わらせてはもらえなかった。
の隣ではユリウスがにもたれかかるようにして花をいじっている。本当は狩猟の集団に加わりたいというのが本音だろうが、昨日のことがあるので仕方がないと、本人も理解しているようで、何も言わずにおいていったギルベルトにも納得したようだった。
いつになく大人しくの側にいる。
傅育官が道の探索や虫取りに連れ出そうとしたが、の側を離れようとはしない。昨日体調を崩しながらも、今日は皆からの心配を配慮して狩猟に参加したを慮っているのかもしれない。
「今日のお昼ご飯は何でしょうね、」
は息子の肩を軽く叩く。
「うーん。でも、とうさまたち、遠くいっちゃったね。」
狩猟でとれたものが、昼の食卓に並ぶのが普通だが、ギルベルトたちはまだ帰ってきていない。随分遠くに行っているようで、銃声すらも聞こえないから、昼はこちらに戻ってこないかもしれない。そうすれば、持ってきている食事だけと言うことになる。
「パンと、ブルスト…ですかね。」
「なんか、せっかく狩猟にきたのに、あじけないね。」
「それもそうですね。」
狩猟に来たのに、成果が何もない食事というのも、ピクニックと言うことにすれば良いかもしれないが、狩猟という名目の元に主催されていると気分は微妙だ。
「おかあさま、体調は大丈夫なの?」
「もう大丈夫です。あなたがいなくなったと聞いて、少し焦っただけだから。」
はそっと息子の頭を撫でる。少し固い銀色の髪はギルベルトの髪と同じ手触りで、は思わず目を細めて笑った。
ユリウスは一瞬鬱陶しそうな顔をしたが、黙ったままのドレスに頬をすりつけた。
「ねぇ、かあさま。ぼくはフォンデンブロー公になるんだよね。」
「そうですね。」
順当に行けばの息子なので、が死ねばの地位を継いでフォンデンブロー公になるだろう。
「嫌ですか?」
「わからないよ。うまれたときからそうだから。」
ユリウスの答えはあまりに素直だった。
「ぼく、よくわからないよ。クラウスがぼくを大事にしてくれるのは、ぼくが公太子だからかでしょ?」
ぼくが公太子じゃなかったら、どうなのかな。と尋ねるその質問の答えをは持たない。
「…わたしにとって、あなたは公太子でなくても、わたしの息子ですよ。」
はそっと小さなユリウスの背中を撫でる。
は正当な公太子であったカール・ヴィルヘルム公子の戦死に伴って突然祭り上げられたため、幼い頃から公太子として育ち、公爵となったわけではない何も知らず苦労した部分も大きく、だから早めに知っておけば将来ユリウスにプラスになるだろうと考えていたが、重荷に感じているのだろうかと心苦しくなる。
彼の気持ちは、には本当はよく分からない。
ユリウスと同じように幼い頃から公太子として育っていたカール・ヴィルヘルム公子はより10ほども年上で、過ごした時間はあまりにも少ない。だからユリウスの気持ちを察してやれる程のふれあいは無かった。
むしろ、フリードリヒの方が太子としての重責をよく知っているかもしれない。だが、は幼い息子が既にそれを明確に意識していることに、驚きと共に複雑な気持ちを抱いた。
にとって、彼はただの息子だ。
「うん。それはしってるよ。とうさまとかあさまは、そうだって信じてるよ。」
ユリウスはぎゅうっとの腰に抱きつく。
「それに、どうせぼくはいつでも公太子だよ。でも、そうじゃなかったらどうなのかなって、ちょっとおもっただけなんだ。」
「どうとは?」
「例えば、おかあさまがお料理をしてて、とうさまが畑をたがやしてる、とか?」
「まぁ、」
は驚きの声を上げて笑う。
「わたし、さすがにお料理をしたことはありませんよ。」
父から疎まれて育ったとはいえ、一応貴族だ。使用人を多数連れて歩くたちが手ずから料理をすることは、基本的にない。戦場に出るなら別だが、特に女性であるがそう言った不慮の事態に巻き込まれることはほとんどない。
「もしも、のはなしだよ!ぼくもないもん!」
ユリウスはそう言って、ぐりぐりとのお腹に頭を押しつけてくるから、くすぐったくてはまた笑った。
「でもとうさまは、畑をたがやしたことが、あるっていってたよ。」
「あら、それは存じ上げなかったですね。」
はユリウスの話にきょとんとする。
実は彼の実家の話は良く聞いたことがない。元はバイルシュミット公爵家の傍系の出身で軍人として成り上がっていたが、本家が絶えたバイルシュミット家の名と領地を継いだという。
領地がない貴族が軍人、特に将校として働くのはプロイセンでは普通のことだ。領地がなければ収入がないと言うことで、軍隊の将校の地位は俸給が出るので生活の糧にもなるし、貴族の体面も保て、また国王と近づき軍での昇進という形での社会的な地位を得ることだって出来る。しがない領地なしの貴族ではよくある就職先だった。
だから彼の経歴自体になんら疑いを持ったことがなかったのだが、まさか畑を耕した経験があるとは知らなかった。
「わたし、鍬もって仕事できますかね。」
「怪我をしたら大変だから、やめたほうがよいよ。」
の言葉にユリウスが真面目に反論をする。
「冗談ですよ。それにしても、目の前においしそうな鴨がいるのに、残念ですね。」
は軽く笑って話を変える。川面で戯れる春先の鴨がいるし、ウサギなども近くにいるのが見えた。
は鴨が好物だ。だが、銃を扱えないので無理だ。
「…ぼくがとろうか?」
ユリウスがの表情をのぞき込む。
銃の扱い方は習っていたはずだが、ほとんと実際には使ったことがないと聞いている。傅育官も5歳の公子に銃を持たせるのは抵抗があったのだろう。だが、先日ユリウスはアルトナインハルト少佐に向けて発砲し、一応彼に当てたと言うから、経験がなかった割に上々だろう。、
だが、そんなぶっつけ本番は実に危険なことだ。
「そうですね…ここなら、安全ですしね。」
は頷いて、後ろの傅育官とテンペルホーフを呼ぶ。
「ユリウスが鴨を撃ちたいそうなんです。」
が説明すると、傅育官とテンペルホーフは少し驚いた顔をしたが、の願いと言うこともあり拒絶はしなかった。
ユリウスは嬉しそうに目を輝かせて、大人たちを見ている。その生き生きした表情には思わず笑みをこぼした。いろいろなことに挑戦したい、やりたいというのが彼の年頃なのだろうか。
どちらにせよ彼は男の子なのだから、多少の乱暴や無茶は目をつぶってやるべきなのかもしれない。
それも、貴重な経験だ。
「大きいのは撃ちにくいでしょうから、どれか小型のものが良いですな。」
大人の使う飛距離の長い銃は重いし、扱いにくい。それに比べ飛距離の短い小型のものは扱いやすいし、近くの鴨を撃つには問題ないだろう。
「…あの、こちらでよろしければ、」
クラウスが少し小型の使いやすそうな銃をわざわざ持ってくる。
「うん。これなら大丈夫そうだ。」
ユリウスはクラウスに屈託無く笑って、銃を構えた。
当たり前という名の非凡さ