フォンデンブロー公国は飛び地以外は内地であるため、アメリカ大陸などの植民地争いには全く関与していない。しかしイギリスとフランスの争いごとは直接ヨーロッパの勢力分布にも反映するので、公国の主であるには逐一情報は入ってきていた。




「まぁ、ブラドック将軍が戦死…」




 は思わず訃報に眉を寄せる。

 彼はイギリスの有名な将軍でアメリカ大陸での戦いを指揮していたはずだ。その彼がフランスの攻撃を受けて敗北し、戦死したという情報を、はベルリンのバイルシュミット邸で受け取ることとなった。




「なに?フランスとイギリスの戦争は決定的?」





 隣で本を読んでいたユリウスが、の手元の書類をのぞき込む。 

 跡取りの彼に隠しても仕方があるまい。早めにこういった事態の味方や対処の仕方を、知っておいた方が良いだろう。もちろん、が最良の選択を常にできているというわけではないが、少なくとも全く見ていないのとでは話が違う。

 は書類をユリウスに渡して小さく息を吐いた。

 まだ腹を探り合っている状態だが、北米での戦争は数ヶ月の間には始まるだろう。そしてまた、英仏が荷担して、普墺のシュレジェン戦争も再燃する可能性が十分に考えられた。




「いやですね、お二方とも、野心がおありで、」




 はイギリスと防衛協定を結んでいる。これはイギリスの戦争に荷担するというものではないが、が持っている飛び地はハノーファー近くにあるので、戦争になれば巻き添えを食う可能性もある。

 だからといって小さな領地なので、大量の軍隊を投入するというわけにも行かない。飛び地であると言うことで、軍隊を投入すれば本土である内地のフォンデンブロー公国から軍隊を派遣せねばならず、そうなれば必ずプロイセン領を通ることになる。

 数万の軍隊の通過など同盟国でもなかなか認められないのは当然だし、そんなことをすれば本土の方が手薄になる。プロイセン、オーストリア、ザクセンと接する立地からして、本土を手薄にするような防衛手段を考えることはできなかった。




「これは、下手をすれば飛び地を手放すことも、視野に入れねばなりませんね。」




 争いに巻き込まれることは望まない。だから、一番に考えるのは戦火に巻き込まれないことだ。その確約ができるのならば手放しても良い。だが、それができないのならば、そして国民がそれを望むのならば、一緒に戦わなければならないのが統治者だ。

 その覚悟は、すでにある。




「ふーん。じゃ、しばらくカークランド卿は来ないかな。ざんねん。」




 ユリウスは少し不満そうに頬を膨らませる。

 飛び地がイギリスの領土であるハノーファーの隣であるため、フォンデンブロー公国とイギリスは仲が良い。それに伴い大使や人の往来も激しいので、アーサーもよく大陸からの物珍しいプレゼントを持ってきていた。

 最新鋭の機械。大陸の珍しい物品。ユリウスにとっては見たことがないものばかりで興味がそそられるのだ。アーサーは不器用だが、そう言う意味では子供のユリウスの心をしっかり捉えている。




「そう言う問題じゃないですけど…まぁ、そうですね。」





 しばらくは来られないだろう。




「アメリカって、とおいよね?」




 ユリウスはの隣に座り、の膝に頭を預けて尋ねる。




「遠いですね。お船に乗って、本当に長いですよ。」

「ふぅん。そっか。きれいかなぁ。」

「さぁ、わたしも行ったことがありません。」




 内陸のフォンデンブローから、が行くことはないだろう。

 ただの貴族であれば興味に駆られて行くものもいるかもしれないが、女性で、しかも統治者であるがそれを許されることはない。が一生かかっても見ることがない場所だ。それは、多分ユリウスも一緒。





「未開拓の土地ですから、何もないかもですけど。」

「そっか、みちのりょういきだね。」




 ユリウスは楽しそうに笑う。だが、は戦争と聞いて、心がざわついた。




「…、」




 オーストリア継承戦争の際、は婚約を予定していたカール・ヴィルヘルム公子を亡くした。本来ならフォンデンブロー公国を継ぐはずの跡取りの公子で、又従兄弟に当たる彼は十以上年上だったし関わりも少なかったが、に唯一優しくしてくれた。

 彼の戦死は、の心の奥底に今も残っている。




「かあさま?」





 ユリウスの無邪気な瞳がを見上げる。綺麗な赤みがかった紫色の瞳はギルベルトに似ている。は思わず優しい笑みをユリウスに向けた。

 どちらに転んでも、ユリウスが巻き込まれたり処刑されることはない。がいる限りは領地が戦火に巻き込まれ、減ることはあるかもしれないが、それでも幼くまだ罪のないユリウスが罰されることは考えられない。同族同士の争いがない限り、フォンデンブロー公国の血筋は古く、血筋としても重んじられる。

 既にとユリウス以外にフォンデンブロー公国の血筋はない。




「大丈夫、」




 はユリウスの額にそっと口づける。

 少なくともまだは自分が欲したすべてをユリウスに与えてやれる。優しい母親、が憧れた子供を愛する父親、そして安定的な地位としっかりした地盤。ユリウスはすべてを持っている。








「ねぇ、イギリスとフランスの戦争は、ヨーロッパで始まる?」




 ユリウスが不安そうにを見上げる。





「そうですね。どうでしょうね。」





 はユリウスの髪を撫でつけながら、穏やかに言いながら、小さな懸念を胸中に抱える。

 オーストリア継承戦争の際、勝利したプロイセンはオーストリアからシュレジェンを手に入れた。しかしオーストリアはシュレジェンの奪還を諦めてはいない。その戦争はイギリス、フランスとの対立とも被さりあって大きく膨らんでいる。

 イギリス、フランスの戦争がアメリカ大陸で始まれば、次はヨーロッパ大陸で戦争を始める。対立する二つの国の思惑と、他の国々の思惑が混ざり合う。対立する二つの大国と、それに伴い不和の状況にある二国―プロイセン、オーストリアの戦争が始まるだろう。そうなれば、ギルベルトはどうなるのだろうか。ギルベルトはプロイセンの将軍で、彼は戦いに出向くだろう。

 は単独のフォンデンブロー公国の君主だ。中立を保てばよいが、彼は戦うはずだ。




「戦争は、嫌ですね。」

「おかあさま、って、本当に戦争嫌いだよね。」




 ユリウスは足をぱたぱたさせながら、を見上げる。




「大切な人を、亡くしましたから。」




 はそう言って目を細める。




「カール公子…?」

「…誰かから聞いたのですか?」




 息子の口からオーストリア継承戦争で失われたカール公子の名前が出てきたことには驚いたが、おそらく臣下の誰かから聞いたのだろう。彼は軍事にも才能を持っており、よりも10以上も年上だったけれど、優しい人だった。




「うん。肖像画があるでしょう?小さい頃のおかあさまとの。」




 昔、今は亡き先の公爵が送ってきた肖像画だ。幼いとその母、そしてカール公子と祖父に当たる先の公爵が描かれている、フォンデンブロー公家の肖像。

 描かれた頃、は父に疎まれており、フォンデンブロー公の弟の孫という何の重要性もない少女だった。カール公子は武勇にも学問にも優れており、彼がフォンデンブロー公となることは誰もが疑っていなかった。

 状況はオーストリア継承戦争で、彼が戦死したことによって一変した。母は既に自殺しており、跡取りである彼までもが亡くなり、血筋は遠縁であるしかいなくなった。 

 公爵もなくなり、今生きているのはしかいない。




「将軍たちが、よくカール公子が帰ってきたようだって、言うんだ。」




 ユリウスが優秀だからだろう。カール公子もまた優秀な人だった。そして、だからこそ将軍たちはユリウスに過保護だ。戦死したカール公子を思い出して、優秀な自分たちの公子が又失われるのではないかと、恐れている。




「そうですね。」





 は優しく笑って息子の頭を撫でる。




「ぼくは戦争も他国のことなんてどうでも良いよ。とおさまと、かあさまがいてくれたら、」




 ユリウスはに甘えるようにに抱きついてくる。




「まぁ、嘘ばっかり。」




 沢山ほしいものがある癖に、とは笑ってユリウスの頬を軽くつねる。

 するとユリウスは甲高い声を出して笑って、ますますに抱きつく腕に力を込めた。


  あまりにもきみが 愛しすぎて