ユリウスは珍しく苛々していた。外では雪が降り始め、屋敷の外に出て馬を走らせることは出来ない。また、公子であるユリウスは人をつけて動くのが普通で、一人になることも出来ず、苛々は更に積もっていた。
父であるギルベルトは軍の勤務がベルリンにいれば常にあるし、母のは妊娠で体調を崩している上、秋の刈り込みの時期の書類の処理に忙しいため、全くユリウスを構ってはくれない。
ギルベルトが同年代にも慣れるようにとつけた同い年のアドルファスと4歳年上で9歳のフレデリックは酷くうるさい。なのに雪が降り始めたため屋敷にいなければならない。
ユリウスの苛立ちはマックスに達した。
そしてやったことは、全員の部屋からの閉め出し。傅育官や女官を始め、全員を部屋から閉め出し、部屋の中に入ってくる人間を零にして、やっとユリウスの気分は落ち着いた。
「…かあさまがわるいんだ。」
いつもなら、我が儘を言い出せば母が叱りに来た。女官や傅育官から報告は受けているだろう。なのに、体調が悪いのか、彼女は怒りには来ない。
まるで放って置かれているようだ。
体調が悪いのは、妊娠をしているためだという。よくわからないが、ユリウスは母をまだ見ぬ弟妹にとられたような気がして、もの凄く嫌だった。あれほど見たくてうずうずしたというのに、ユリウスは素直に弟妹を歓迎できない気持ちになっていた。
「なんだよ。ぼくは、公太子なのに。」
ぶつりと悪態をつく。皆が、公太子、大切な跡取りとして自分を崇めるけれど、両親は違う。もちろん知っている。でも自分は大切な子供でしょうと、ユリウスは頬を膨らませた。
父が駐屯地などに行って母を独占する時間が多かったユリウスは、母の諫める言葉を疎ましく感じながらも、母に依存するところが大きかったと、母が妊娠して体調を崩し、自分の構わなくなってから初めて気がついた。
「おい、何してんだおまえ。」
軽くドアが叩かれ、部屋に人が入ってくる。ユリウスが女官たちを追い出したのとは別のドアだ。そのドアは父であるギルベルトや、母であるの部屋に繋がっている。そちらのドアの鍵は、ギルベルトたちが持っているため、ユリウスとはいえ、施錠することは出来ない。
「とう、さま?」
ユリウスは一瞬驚いて、近くに置いてある置き時計を探る。フリードリヒに下賜された高価な彫刻のある時計は昼の1時を示している。普通なら父が宮殿に出仕している時間だ。何故と思っているのが顔に出ていたのだろう、ギルベルトは呆れたような顔をして息を吐いた。
「今日からしばらく仕事は休みだ。」
雪の時期になれば軍隊は動かなくなる。前の春、ギルベルトはシュレジェンの駐屯地にいたためベルリンの屋敷にいなかったが、今年はベルリンにいる。とはいえ、雪の時期に動くことはほとんど無い。
宮殿への出仕が緩慢になるのは当然のことだった。そもそも軍隊というのは戦いさえなければそれ程忙しい場所ではない。
「あ、そ。」
ユリウスは素っ気なく答えて唇を弾き結んだ。
今は父とはいえ、素直に話す気にはなれなかった。父はと言うと、近くにあった椅子を引きずって、座る。どうやらユリウスの部屋に居座る気らしい。ユリウスが黙っているため、先に話を始めたのはギルベルトだった。
「アドルファスとは、仲良く出来そうにないか?」
父が困ったように苦笑しながら問うた。
ユリウスの乳母であるルイーズの息子、アドルファスとフレデリックだが、どちらもユリウスは大嫌いだった。
公太子として大人の中で育ち、また年の割に物わかりの良いユリウスに、同年代の子供がついたことはなかった。ベルリンの士官学校に通っており、父親がフォンデンブロー公国の貴族であるためベルリンのバイルシュミット邸に滞在しているクラウスが、ユリウスの唯一年齢の近い従者だった。とはいえ、彼も12歳だ。
同年代の従者も必要だろうと父が思ったのが事の発端らしい。手始めに一番身近な乳母の子供をつけてみたらしいのだが、当然12歳のクラウスのように物わかりがよいはずもない。
「何が駄目なんだ?」
父は軽く尋ねるが、ユリウスにとっては大問題だ。
「うるさい。馬鹿だし。苛々する。あんなのと一緒に一時間といられないよ。」
9歳のフレデリックも、5歳のアドルファスも、子供らしい子供だった。外をかけずり回ったり、おもちゃで遊んだり、兵隊ごっこをしたり。5歳にしてピアノを弾き、英仏独語の読み書きを完璧にこなすユリウスにとって、それは随分と幼稚に映った。
「そうか。じゃ、ま。やめとくか。」
ギルベルトとて、別に試み程度のことだったらしい。無理矢理アドルファスたちをユリウスの側近に取り立てる気もないらしく、あっさりと引き下がった。ユリウスは少しだけほっとしたが、苛々は全く消えない。
「かあさまは?」
「ん?殴り合いの話は驚いてたぜ?」
「あぁ、あれ。」
1週間ほど前、ユリウスはアドルファスと叩き合いの喧嘩をした。アドルファスがあまりにうるさく、ユリウスが「Halt den Mund!」と言ったら、彼が兵隊の人形を投げてきたのである。それを投げ返したら、叩かれたからたたき返しただけ。
「他にも、気に入らねぇことがあんだろ?」
父が緋色の瞳でこちらを見るから、ユリウスはうっと怯んで、ますます唇を固く結んだ。
不満はある。それは母に対する不満だ。だから母がどう思ったのかを聞いた。どうして叱りに来てくれない。どうして、どうして。
「なんで、」
勝手に膨らんでいく焦燥に苛々が募る。
『様は、今体調が優れませんから、』
乳母のルイーズも、女官のエミーリエも、皆ユリウスに一様にそう言った。妊娠しているから、体調が悪い。だからユリウスと会えない日もあると。
いつも母はユリウスの部屋に来て、話をしたり、子供部屋に来て勉強を教えたり、ピアノを弾いたりしてくれた。だから会いに行く必要はなかった。彼女がいつも来てくれる。いつも。なのに。
「あのなぁ、は腹に子供がいるから、体調が悪くなることもあるって、話、俺したろ?」
「しってる。それはルイーズとかにもきいた。」
「それにな、何で苛々するんなら素直に来ねぇんだよ。」
ギルベルトは椅子から立ち上がり、ソファーの上でクッションを抱きしめているユリウスの頭を撫でる。
何故母の部屋に行かないか。体調を崩してからと言うもの、彼女は部屋から出てこない。出てこれない。だが、母とユリウスの部屋は別だけれど、出入りは自由だ。ユリウスが両親の部屋に入ることはいつでも出来る。でも自分から頻繁に行くのは、恥じらいがあった。
だから、いつも来てくれるのに、どうして来てくれないのと、焦燥ばかりが募る。
「うるさいなぁ!」
ユリウスはクッションを振り回してギルベルトの手を払いのける。父は少し驚いた様子だったが、がしりとユリウスの服の首根っこをひっつかんだ。
「なっ!はなして!はなせ!」
「おーおー、おまえは元気なこった。」
暴れるユリウスをぶらぶらとぶら下げながらも、父の力強い腕はびくともしない。
「あのなぁ、くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ。は体調悪いし、おまえの部屋に前みたく頻繁に行くなんて無理なもんは無理。」
体調が良ければは必ずユリウスの所を訪れただろう。体調が悪くて無理だから、訪れないのだ。焦燥を募らせようが、に来てほしくて問題を起こそうが、不可能は不可能だ。
「でも、でもそれはお腹のこどもが!」
お腹に子供がいるから、体調が悪いのだと女官たちが言っていた。だから、子供さえいなければとユリウスは思う。弟妹さえ、生まれてこなければ。彼女の腹からいなくなれば。
ユリウスが言った途端、父のギルベルトは酷く怖い顔をした。
「馬鹿なこと言うんじゃねぇよ。」
ぎろりと緋色の瞳に睨まれて、ユリウスは怯む。
「それにな。おまえだってそうやって生まれてきたんだぜ。毎日部屋にいるくらい、あんだけ辛い思いして、それでもおまえを生んだんだ。よく見とけ。」
子供が生まれる時、妊娠の時などと言うのは、皆同じだ。ユリウスが生まれた時だって、今と変わらない。そう言われて初めて、ユリウスはそのことに気づいた。酷く体調の悪い母。そんなに体調が悪いのなら、弟妹なんていらないとユリウスは思ったけれど、母は。
「命は、すっごく重いんだぜ。」
苦しい思いをしても、それでもおまえがほしかったのだと、言外に言われた気がした。
約束の意味する重さ