の容態はしばらくすると安定した。医師はまだ4ヶ月と妊娠早期であるため流産の危険もあり、1週間以上は様子を見なければならないとのことで警戒はしているが、数時間もすれば腹の痛みは消えたらしい。
頭の方もたいしたことは無いとのことで、神経が沢山集まっている場所だから、血が沢山出ただけのようだった。
あの後、ギルベルトはにつききりだったため、泣きじゃくるユリウスを部屋から連れ出したのは乳母のルイーズとお気に入りのクラウスだった。
夜になってが眠った頃合いに、ちょうどユリウスは泣き疲れて眠ったらしく、報告の意味で乳母のルイーズがやってきた。
彼女はイングランドのフェージリアーズ伯爵夫人で、夫をアメリカ大陸の戦争でなくした後、遠縁のアルトシュタイン元帥を頼ってフォンデンブロー公国に身を寄せ、その後ユリウスの乳母として選出された。二人の子供の母でもある。
長い金髪の印象的な彼女は、ギルベルトを見て優雅に頭を下げ、少し困ったような顔をしていた。
「ユリウスは?」
「眠っていらっしゃいますわ。…随分、泣いておられました。」
が隣室で眠っているため、小さな声を心がけてルイーズは言った。
ルイーズの目には、ギルベルトを責めるような視線もあった。それを理解していながら、ギルベルトは素知らぬふりを装う。
「最近、様のご来訪がないことを、ユリウス様はお寂しく感じておられたのです。」
ルイーズはギルベルトに訴える。それは主であるギルベルトに対して、明らかに出過ぎたまねだった。それは身分や立場をしっかりとわきまえるルイーズとて、理解しているだろう。ユリウスのために、進言しているのだ。
だが、言われなくてもそんなことはわかっていた。
「取り返しのつかない失敗になったかも知れないんだ。」
ギルベルトは今までユリウスを怒鳴りつけたことはあったが、今まで息子に手を挙げたことはなかった。少しだけ心が痛む。だが、後悔はしていない。彼がやったことは非常に危険なことだった。意図はしていなかっただろうが、まだ妊娠初期のは、ちょっとしたことで流産に繋がることがある。そして、それは腹の子を失うだけではすまない。
を失うかも知れないのだ。
かつて、の死の報がギルベルトにもたらされたことがある。それは敵からの誤りの報だったが、その衝撃を未だにギルベルトは忘れたことはなかった。
いつか、いつかは失うのだろう
でも、こんな早い喪失など覚悟できようがない。否、ずっと覚悟できないのかも知れないが。
「それに関しては、ユリウス様も理解なさいました。」
ユリウスの部屋から出てきたクラウスが、ギルベルトに言う。
「理解なさった上で、どうしたらよいのかと焦って泣いておられました。こういった事態になることを、予想しておられなかったようです。」
クラウスは泣くユリウスにずっとついていたのだろう。少し疲れているようだった。
ユリウスにとって、をクッションで叩いたのは小さな抵抗のつもりで、を傷つける意図はなかっただろう。いつものなら笑って済ませたことだ。ただ、体勢が悪く、また妊娠中だったと言うだけのこと。
「ユリウス様も、戸惑っておいでです。かなりショックだったようで。」
ユリウスは自分のちょっとした抵抗が、ここまで大事になるとは思っていなかったのだ。そして実際に起こったことの処理をいったいどうつければいいのかを、付け方が分からないことに戸惑いを覚えている。途方に暮れている。
「…差し出がましいことだとは分かっています。」
ルイーズは胸の前で両手を握って、意を決したようにギルベルトに言う
「様が目を覚まされましたら、少し、ほんの少しでよろしいのです。様から、ユリウス様を自室へ呼び出してはいただけないでしょうか。」
「は妊娠中だぜ。それに俺たちはあいつが自室に入ってくることを規制してない。」
ギルベルトは言外にルイーズの言葉を拒否した。
ユリウスとギルベルトたちの部屋は繋がっている。自由に出入りが出来るようになっており、許可が無くともユリウスはやギルベルトの部屋に出入りすることが出来る。
君主一家や大貴族ともなると、許可がいる上に頭を下げて部屋に入るような家族もいるらしいが、はそれを望んでいなかった。自分に母がいたように、子供が望む時にいつでも愛情を与えてやりたいというのがの考えであり、ギルベルトもそれに沿っていた。そのため前は寝室まで一緒だった。
はユリウスと寝室などを別にしてからも、自分から頻繁にユリウスの部屋に行っていたため、ユリウスが一人での部屋に行くことは、確かに少なくなっていた。だが、出来ないわけではないのだ。
「会いたかったら、こりゃ良いだろ?」
何故わざわざから呼び出さねばならないのか。に今はどんな負担もかけたくなかったため、ギルベルトは難色を示した。
「…でもユリウス様は今回のことについて、取り返しのつかないことをなさったと思っていらっしゃいます。」
クラウスが少し俯いて、ぽつぽつと呟くように言葉を紡ぐ。
「そりゃ、取り返しつかねぇからな。」
ギルベルトは少し語気を強めて息を吐く。
「だから、様に非常にお会いしにくいと、前以上に思っていらっしゃると思います。」
クラウスは必死で訴える。
「最近ユリウス様は、様の愛情がご自分から離れていくのではないかと、ご心配されているようでした。」
「はぁ?」
ギルベルトは腰に手を当てて思わず素っ頓狂な声を上げる。
「そんな馬鹿な話があるかよ。あいつは俺たちの息子だ。そんなくだらない。」
「話が脱線するように思いますが、…ギルベルト様は、ご兄弟は?」
一笑に付したギルベルトに、ルイーズが尋ねる。ギルベルトは瞬きをして、首を傾げた。
「いねぇけど。」
国であるので、本質的に兄妹などいるはずがない。首を振ると、ルイーズとクラウスが二人揃って顔を見合わせた。
「様も一人っ子に近かったと存じ上げております。」
ルイーズは息を吐きながら頬に手を当てた。
は他の兄姉と母親が違い、父母が不仲であったため、諸国を放浪する母について育ったため、兄姉はいない、と言うに近い。
「ギルベルト様。親を巡る兄姉の愛情の奪い合いというのは、結構過酷なものなんです。」
クラウスはかりかりと頭をかいて、息を吐く。そう言えば彼にも妹がいるし、他にも弟妹が生まれている。
「その通りですわ。これがまた、後々まで成人してからも尾を引くのです。」
「まじで?」
「えぇ、わたくしの姉など、末の妹だけが恋愛結婚を許されたことを理由に、どれだけ後に彼らを虐めたことか…。」
ルイーズは遠い目で宙を見上げる。
「そ、そんなの…」
しらねぇ、とギルベルトは正直思う。
ユリウスがから構ってもらえないからすねていたのは知っていたが、まさか愛情まで疑っているなんて思わないし、下の弟妹が出来る兄の気持ちなど、想像も出来ない。経験がなさ過ぎて範囲外だ。
ましてや親の愛情の奪い合いなど、国であるギルベルトにとっては、まさに青天の霹靂だった。親などいないも同然なのだから。
「それに様の部屋に直接行くのは、恥ずかしいという思いもおありだったのでしょす。ですから、どうか、どうか、そのあたりのご配慮を。」
ルイーズはすがるような目でギルベルトに言う。
彼女は心から、乳母としてユリウスを心配している。クラウスも同じだ。後に自分が仕えるべき主人を慕っている。ユリウスを一番に考えている。
「俺たちがユリウスにかける愛情は、これからも、これまでとなんら変わりねぇよ。」
二人目が生まれようが、三人目が生まれようが、全く関係ないことだ。ユリウスはギルベルトとの息子であり、本当に大切な宝物だ。
「だから、…ちょっと、と相談する。」
ギルベルトがそう結論を出すと、ルイーズとクラウスの顔がぱっと輝く。
「あ、ありがとうございます!」
クラウスとルイーズは揃って深々とギルベルトに頭を下げる。ギルベルトは少し渋い顔をしながらも、考えたこともない話に小さくため息をついた。分からないことだらけだった。
君に届かない距離