正直ユリウスはもう目覚めたくなかった。

 散々泣いて、喚いても、答えなど出るはずない。ユリウスが母にしてしまったことが取り返しのつかないことであるのは分かっていたし、仮にもし母に何かあったとすれば、朝に女官や乳母から知らされることだろう。

 それを考えると、ユリウスは眠りたくもなかったし、眠ったのなら二度と目覚めたくなかった。

 しかし当然のことで、朝という時間は平等に人に訪れる。




「…、」




 ユリウスは朝日に目を細めて、もそりと布団の中に潜り込んだ。

 十分に寝てしまったため、既に目はさえている。それでもユリウスは起きる気にもなれず、布団の中に潜り込んでいた。

 冬場とはいえ、頭まで潜ってしまえば布団の中は熱い。




「うぅ、」





 昨晩散々泣いたのに、考えが頭の中でくるくる回って、また泣き出しそうだった。

 父に殴られた頬が酷く痛む気がする。軽い力だったけれど、父に手を挙げられたことはユリウスにとっては衝撃だった。怒鳴りや冗談で叩かれることはあっても、彼が本気で手を挙げたことは今までなかった。

 妊娠して、母は体調を崩して自分に構ってくれない。それを愛情の薄れのように感じていたユリウスにとって、父から殴られたことは両親から見捨てられたような心地がした。

 また、不安定だと言われている母の体調から考えて、ユリウスにとっては小さな八つ当たりのつもりの行為が、母に多大な影響を与えてしまったことはユリウスにも理解できていた。理解できていたからこそ、もうどうして良いか分からなかった。

 医師や女官の焦った声、父が母を呼ぶ切ない声。




「もう、やだ、」




 ユリウスは布団の中で小さく呟く。あの後、部屋から追い出されたユリウスは、母がどうなったのかを知らない。

 母が、死んでいたらどうしよう…。

 そう思えば、ユリウスはこみ上げてくるものがこらえられなかった。構ってくれなくても、自分を愛してくれなくなったとしても、ユリウスは穏やかな母と強い父が大好きだった。だから、自分のせいで失ったかも知れないと思うと、もうどうすればよいのかわからなかった。




「ユリウス様?」




 乳母のルイーズが部屋に入ってくる。ユリウスは起きていると分からないように布団の中に潜ったままだったが、長年ユリウスに仕えてきているルイーズにはあっさり分かったらしい。




「ご気分はいかがですか?」





 答えなくとも、ルイーズは布団の上から優しくユリウスを撫でてから言った。




様が、お呼びです。」

「え?」





 ユリウスはぱっと顔を上げて、布団を跳ね上げた。




「か、母様は・・?」

「昨晩お眠りになり、ご容態は非常に安定されていると言うことです。」





 ルイーズはか細い声で尋ねるユリウスを宥めるように穏やかな声音でゆったりと言う。

 ユリウスはその知らせに安堵の息を吐いた。昨日の今日だし、それなりに影響はあっただろうが、それでも急を要する事態にはなっていないらしい。ほんの少しだけ、ユリウスは心を落ち着けた。




「ですから、久々にユリウス様と朝食をともにされたいと、おおせです。」

「一緒に、でも、」




 昨日体調を崩したとあれば、常であればは朝に出てこない。最近は朝体調が悪いこともあったので、ユリウスが母と朝食を共にすることはなくなっていた。また昼や夜は忙しいので、食事を共にすることはない。

 ユリウスが驚いていると、ルイーズは少し嬉しそうな表情を見せた。




様がユリウス様にどうしてもお会いしたいとおおせだそうです。」




 そう言って彼女はユリウスの布団を取り上げる。晴れ晴れしい彼女の表情とは裏腹に、ユリウスの心はちっとも晴れない。

 母の体調が安定したのは良かったが、それでも自分がやったことに対する罪悪感は消えない。




「…やだ、行かない。」




 ユリウスは結局そう答えていた。

 あわせる顔がない。おそらく父も軍隊が休みになるから、家にいるのだろう。今のユリウスには父と母と顔を合わせる勇気が、なかった。あんなことをして、ただで済まされるわけがない。ユリウスは自分の甘えが起こした事態を、重く受け止めていた。




「…ですが、」





 ルイーズが表情を曇らせて悲しそうな顔をする。

 乳母のルイーズは、基本的にあまり怒るタイプではない。諭すことはあっても、ユリウスに対してきつく言うことはなかった。それでも、彼女がユリウスを大切に思っていることは知っている。

 傅育官や女官が第一義に考えるのは主である父ギルベルトや、母の命令だ。だが乳母のルイーズとクラウスだけは違うことを、ユリウスは幼いながらに理解していた。クラウスはまだ士官学校の生徒であるからギルベルトの命令を第一義としないのだろうが、乳母のルイーズは大人の中で唯一、ユリウスを一番に考えているとわかる人だった。




「ぼくは、いかないよ。」




 ユリウスはもう一度ルイーズにそう言う。すると彼女は「わかりました」と悲しそうな目をしながらも、頭を下げて従った。ユリウスは彼女が自分の我が儘を理解した上で許すことを、何となく知っていた。

 ルイーズがへの伝言のために部屋を辞するのと同時に、クラウスがやってくる。




「ユリウス様、」




 彼もまた心配そうな顔をしていて、目の下に隈があった。別にクラウスがそんな顔をする必要もないだろうに、




「変な顔、」




 ユリウスが思わずそう呟くと、クラウスは少し不機嫌そうな顔をした。素直な感想は彼の機嫌を損ねたらしい。




「…ねぇ、クラウス、遠乗りに行きたいな。」

「今日は雪ですよ。」




 クラウスは困った顔で窓の外を示す。

 大きな窓の外は一面の銀世界で、馬を走らすのが可哀想なほど雪が積もっている。だが今日は清々しく晴れているようで、陽光がカーテンの隙間から差し込んでいた。




「なんか、遠くに行きたい気分なんだよ。」




 現実的な意見にユリウスはため息混じりに言って、ベッドの布団の端っこをいじる。




「とおく、とおく、遠くに行きたい。」




 呟いた言葉は、本心そのものだった。

 父母に顔を合わせたくない。日頃なら謝って許されることだ。でも、ユリウスが母を傷つけて、大変な目に遭わせたという事実は変わらないのだ。たまたま彼女は持ち直したが、それでもずしりと重い石が置かれたように、ユリウスの心は未だにふさがれていた。




「とおく、ですか?」




 クラウスは戸惑う。





「そうだね。遠く、アメリカとか、アメリカに行こうか?」




 ユリウスはクラウスに言った。

 本当はそんなことは不可能だと分かっている。プロイセン王国の首都である内陸のベルリンからアメリカまで、どれだけの時間がかかるのか。そして君主の息子であるユリウスがそんなこと出来るはずがないと、誰でも分かっている。




「ぼくは、ぼくを誰もしらないとおくにいきたいよ。」



 ユリウスは膝を抱えて、俯く。

 誰も自分を知らないところに行きたい。全部投げ出して、罪悪感も放り出して、どこかへ逃げてしまいたい。

 普通なら、皆不可能だと諭すだろう。そんなことは無理だからやめておけと、馬鹿な考えだと笑うだろう。

 だが、クラウスは違った。




「そうですか。でも俺も連れて行ってください。一緒に、行きます。」




 クラウスは笑いも呆れもせず、諭すでもなく、ユリウスに真顔で言った。




「…ここを出たら、ぼくは公太子じゃないよ。」




 ユリウスは釘を刺すように唇を尖らせる。給金ももらえない。地位や名誉も、公太子でなくなれば、与えてやることが出来ない。それでも良いのかとクラウスを見ると、彼は笑った。




「はい。一緒にと誓いましたから。」





 クラウスはユリウスに笑って、ユリウスの手を取る。その手の温もりをじっと見つめながら、ユリウスは目を閉じた。





  なんだか まるで 答えの出ない延長線上を走っているみたい