ユリウスの不安は母との面会ですっきりした。
雪が降り出し、母であるも妊娠安定期で体調が安定したため、ユリウスが母の部屋を尋ねればとともにいる時間が増えた。
対してギルベルトは雪の中をポツダムにあるフリードリヒの宮殿まで出向くことが増えた。年明けの一月に向けて、イギリスとの同盟の話が本格化したためだ。
「本当に、嫌ですね。」
母のは戦争の話を聞くと、あからさまに嫌な顔をした。だが、迫り来る不安はもうそこまで来ている。戦争は来年の中には始まってしまうだろうと思われた。ユリウスにもそれが何となく分かった。
ベルリンでは戦争の準備が着々と進み、外交交渉が激化していることは、幼いユリウスの目にも明らかだった。また、自身も出産すればすぐにフォンデンブローに帰国することになっていた。ユリウスもまた、同様だ。
「…フォンデンブローに帰れば、古い髭に会えるかなぁ…。」
ユリウスは老齢の軍人のことを思い出した。
「どうでしょうね。領地に引きこもっているという話ですが。」
母のは小首を傾げてみせる。
アルトシュタイン元帥は市民初の元帥で、何かとユリウスのお気に入りだった。ただ幼かったため、老齢の将軍のことをAlte Schnurrbart(古い口髭)と呼んでいた。失礼この上ない呼び方だが、アルトシュタイン元帥が気にすることはなかった。
近親者の既に亡いアルトシュタイン元帥は、次の公子であるユリウスのことを非常に可愛がっていて、またユリウスもアルトシュタイン元帥を大人の中では酷く好んでいた。
アルトシュタイン元帥は今は老齢を理由に軍役を離れ、がシューネンホイザー離宮の近くに領地を与えたためそこで引きこもっている。
「戦争って、何なの?」
じっと母の紫色の瞳を見て、ユリウスは漠然とした疑問を母に問うた。
ユリウスは戦争を見たことがない。小競り合いは確かにあったけれど、ユリウスが見るのは上からの風景だけだ。要するに軍事訓練や閲兵くらいのもので、下々の兵士たちが何をやっているのか、どうやって戦うのか、戦場はどんなものなのかをユリウスは当然知らない。
ただプロイセンの兵たちの、将校たちの指揮が高まっているのはわかった。異常な盛り上がり。死という事実はあるはずなのに、戦争を求めている人々がいる。功績を、称号を得る機会を願っている。
大きな戦争が生まれてこの方なかったため、戦争がどういう状況を生むのか、この異常な高揚感がどこに帰結するのか、ユリウスには皆目見当がつかなかった。
「そうですね…、大切なものをなくすもの、ですね。」
はどこか遠い目をして、膨らみ始めた自分の腹を撫でて言った。
「殿方は、戦争がお好きな方もいらっしゃいます。軍人として、武勲を上げることは誉れですもの。」
「…父様も、そうだよね。」
ユリウスは父のギルベルトは、元はバイルシュミット公爵家の傍系出身で、軍事的な才能だけで国王に取り立てられ、血筋の絶えた本家を継いだと聞いている。もしもギルベルトが傍系のままであれば、フォンデンブロー公国の跡取りのと結婚する可能性は万に一つもなかっただろう。
とてそれは理解している。
「そうですね。でも、わたしにとっては大切なものをなくすのが、戦争です。」
手に入れられるものがある反面、なくすものがある。
「カール公子はかつて、フォンデンブロー公国を守ってなくなりました。これはプロイセン相手に大きな武勲だったでしょう。」
小国であるフォンデンブロー公国とプロイセン王国との国力の差は明らかだ。援軍もない中、プロイセン軍を追い返したことは今でも語りぐさになるほどの、武勲である。だが、の表情は晴れない。
「でもね、わたしは心から彼に帰ってきてほしかった。」
紫色の瞳を伏せて、が思い出すのは、今も馬に乗って去って行く背中だ。
「国なんてどうだって良い。でも、ただ、戻ってきてほしかった。」
言いつのる母の瞳は酷く暗い。
将軍たちが悲しさを孕んだ誇らしさとともにカール公子のことを話すのを、ユリウスは知っている。誰もがあの時のカール公子の死は、フォンデンブロー公国にとって必要な犠牲だったと言った。勇敢さと、大国を押し返したその知略を称えた。
「…これは、統治者としては酷い言葉ですけどね。」
はふっと自嘲気味に笑って見せる。
国を守らなければならないのが統治者だ。カール公子はその当時公太子だった。公爵は老齢で、皆を守る義務があったから、戦いに挑んだのだ。彼は統治者として相応しい器量と、才能を見せ、義務を果たして死んでいった。
統治者として、当然のこと。
「お母様は、今も帰ってきてほしかったって、思う?」
今母は統治者だ。統治者として、犠牲が必要な時もある。それを理解した今でも、はふわりと笑った。
「今でも、多分同じことを思うでしょうね。個人か国か、それはとても難しいことです。でも、今も思います。」
諦められるような感情でないから、大切なのだ。理性や義務などで片付けられる感情ではない。
「それでも、守りたいものがあるから、皆行くんでしょうね…」
死が怖くない人なんていない。それでも、大切なものがあるから人は戦いに赴く。武勲を求めるのだってそうだ。大切な人がいるから、その人たちに豊かな生活をさせてあげたいから、それを求める。
去って行くカール公子の背中を、は今も忘れはしない。
彼が戦いに赴いたのはそこに自分の国があったから、そして、祖父である公爵が、が国にいたからだろう。
「男の方は、難しいですね。わたしが戦いに赴くことは出来ませんから、」
ユリウスは悲しそうに目を細める母を見上げる。
彼女はユリウスが生まれる一年前、即位早早戦争に見舞われたという。そのとき軍を率いたのはギルベルトだと聞いている。女が戦場に赴くことは出来ない。統治者として、そして軍事権限だけを主に担うフォンデンブロー公家では、彼女にも葛藤があったことだろう。
「貴方もいつかはそうなるのでしょうけど、それはずっと先の話。まだ貴方はわたしのかわいい小さな息子ですから。」
柔らかに笑ってはユリウスの頭を撫でる。ユリウスは笑い返して、母に抱きついた。
「ぼくはしあわせだね。」
ユリウスは心からそう思っている。
その気持ちは他国の王族や貴族を見るようになってから、強くなった。不仲な両親、礼儀ばかりが壁になり、自由に抱きつくことも出来ない。周りにつきまとうのは利益を求める人ばかり。
ユリウスには自分を愛してくれる両親がいる。不安な時抱きつくことが許される。喧嘩をするなんて言うことも、許されない立場の貴族も多い。家庭を大切にする父母のおかげで、ユリウスはいつでも幸せな愛情に包まれている。もちろん、公太子としての重荷は年を経るごとに感じるようになったし、ユリウスを利用しようと近づいてくる人々は多い。
でも、両親が愛してくれるため、自分は自分と強く思うことが出来る。公太子でなくても、ユリウスをユリウスとして愛してくれる両親がいる。そのことはある意味で、公太子としての重責に耐える力にもなる。
「良かった。でも、わたしも同じ、とても幸せです。」
はユリウスに応じ、彼の小さな体に手を回して、強く抱きしめる。
「…戦争、こないといいね。」
ユリウスは母の腕の中で、ぽつりと言った。
戦争が始まれば、父はプロイセン王国で戦うだろう。やユリウスはフォンデンブローに戻るはずだ。
ただ、ユリウスはこの普通ではないが、酷く普通の家庭が続くことを望んでいた。別に大きな国など望んでいない。フォンデンブローは豊かで、宮殿は美しく、両親が傍にいる。それだけで、ユリウスにとっては十分だ。
「そうですね。年が明ければ子供も生まれることですし、騒がしくなるでしょうね。」
は自分の膨らみの目立つお腹を撫でる。
年明けには生まれる赤子、まだ見ぬ、ユリウスの弟妹。最近は少しずつ命がいるのだと分かるようになってきて、ユリウスとギルベルトはよく母のお腹を撫でながら過ごしている。
ユリウスは母のお腹にそっと耳を押し当てる。
「…きっと、大丈夫だよ。」
まだ見ぬ赤子に言い聞かせるように、呟く。
そう思いたいのは多分、皆一緒だった。
国への愛と、愛しい人と、両方を守ることは同義である