「ユーリが歩くようになったんだぜ!」
久々にフォンデンブロー公国の避暑地であるノイエルーフェンを訪れたアーサーは、あまりのにやけた顔つきの男に頭痛がした。会った途端に満面の笑みで自慢され、即イングランドの母国に戻りたくなったが、会いに来たのがなにぶん彼の妃の方であったため、何とか理性を総動員して思いとどまった。
フォンデンブロー公国の主であるフォンデンブロー女公とギルベルトの間に子供が生まれたのはちょうど一年ほど前で、そのことはアーサーもよく知っている。
知ってはいるが、実際に見るのとでは話が違った。
ギルベルトの腕にはくるりとした赤みがかった紫色の瞳の赤子がいる。しばらく見ない間に随分と成長したとは言え、本当にギルベルトの腕にしがみついているような状態だ。本当にまだ小さい。
ふわふわと揺れる銀色の髪や精悍な鼻筋などを見ると、どちらかと言えばギルベルトに似ているような気がしたが、目尻が下がっているところなどは母親であるに似ており、鋭さばかりが目立つギルベルトよりは柔和な顔立ちだった。
「可愛いだろー」
可愛いと言われれば子供なんて皆それなりに可愛いものだと思う。
ただ特別に可愛いと思うのが親ばかという奴だ。自分の子供は目に入れても痛くないと言うが、戦いばかりだったこの男も例外ではないらしい。戦場にいた頃の精悍さなど欠片もない。表情緩みっぱなしで気味が悪いほどだ。
「そ、そうか…」
口の端が引きつる思いながら、アーサーはやっとの事で一言だけ口にした。
「あら、すいません。遅れてしまって。」
申し訳なさそうに謝りながら隣の部屋からやってきたは硬直しているアーサーを見て頭を下げた。彼女が時間に律儀なのは知っているが、別にの遅刻に驚いて硬直しているわけではないアーサーは息を吐いて近くのカウチに腰を下ろした。
明らかにフォンデンブロー女公であるの方が地位が上なので不遜な態度と言うことになるが、気にするような性格でもないは、あっさりとアーサーの行動を黙認して見せた。むしろ気づかなかったようだ。
「そうか、もう一歳になるのか…。」
生まれた時を知っているアーサーは思わず黄昏れる。人の成長とは非常に速いものだ。くしゃくしゃした顔で泣くばかりの赤子は、今はギルベルトの腕におさまって興味深そうに客人であるアーサーを見ている。
「べーあ?」
だれ?と拙い単語でユリウスが尋ねる。
「Er is Graf von Kirkland.」
彼はカークランド卿、とが息子の問いにドイツ語で答える。
「う゛ぉーへあ、こむ えあ?」
Woher kommt er? 彼はどこから来たの?、と幼い声音がまた問う。拙いドイツ語が何やらとても可愛らしい。
「Er ist Englander.」
イングランド人だ、と今度はギルベルトが息子に答えて、ユリウスを抱えたままカウチに腰を落としたの隣に座る。
「えんぐりっしゅー? Mein Kindermadchen ist Englanderin.」
ぼくの乳母もいぎりすじんだよ、とユリウスは体を揺らしてころりと笑う。
彼の乳母ルイーズははイギリスの伯爵夫人だった人物だ。そのため、ユリウスは幼いながら多少は英語が分かる。
「はろー、ないすとーみーとぅー、まいなーめ、いず、ゆりうす、」
酷く拙い英語でユリウスは自己紹介をしてみせる。それはおそらくルイーズが言った言葉をまるまる覚えていただけだろう。しかもドイツ語の発音と混ざっている部分もあったが、アーサーは思わず表情を緩めた。
まだ幼い彼が懸命にこちらの言葉を話そうとしてくれているのに、悪い気はしないだろう。
「久しぶりだな、Frust von Neuerufen. お会いできて光栄だ。」
赤子の頃に一度会っているのだから、初めましてはおかしな話だろうとアーサーはその言葉を選んだ。
ノイエルーフェン侯爵はフォンデンブロー公太子の儀礼称号である。次期フォンデンブロー公爵になるものはそう呼ばれるのだ。幼いユリウスも、同じ。新たなノイエルーフェン侯爵である。
「は、ろー」
にこっと笑うユリウスに人見知りはないようだ。親以外の大人を見れば泣いても良い所だが、愛想が随分良い。
「本当に人見知りのない子なんです。」
が柔らかに微笑んで、ユリウスをギルベルトの手から抱き上げる。すると、ユリウスは目をきらきらさせてアーサーに手を伸ばした。
「え?」
アーサーは思わず戸惑う。
王族の子供を見たことがあっても、本当に抱いたことはほとんどなかった。ギルベルトの方を見ると、涼しい顔でユリウスを見ている。一年前に初めて子供が生まれた時の慌てぶりは情けないほどだったというのに、ギルベルトはもう慣れたらしい。
「大丈夫だって。こいつ図太いから、そうそう泣かねぇし。」
手をひらひらさせる。どうやら助けてくれる気はまったくないらしい。
仕方なくアーサーがおそるおそるユリウスの近くまで行くと、手を広げたユリウスが嬉しそうにアーサーの腕に飛び込んできた。勢い余ってふんぞり返って転びそうになったが、なんとか受け止める。
温かい、そして案外重い。
それがアーサーが子供を抱いて初めて感じたことだった。
ユリウスを抱いたまま立ち上がると、高いのが嬉しいのか声を上げて笑い、体を揺らす。慣れないことにどきりとしたアーサーだったが、ユリウスの機嫌は頗る良い。
「むてぃー」
ユリウスはアーサーの腕の中からに向けて手を振る。
「はいはい。見ていますよ。」
は慣れた様子で息子に手を振りかえした。
「人見知りがないんだな。」
「そうなのですかね。まぁ、よい子で助かりますけど。」
初めての子供なので、はよく分からないらしく、アーサーが言っても首を傾げる。ギルベルトも全く気にしていないようだ。
くるくるとした大きな瞳は可愛い。何よりふっくらとした頬がふにふにで、自分の子供でなくても、思わずにやけてしまいそうになる。少しギルベルトのあのにやけ顔の理由が分かった気がする。
「良いだろー可愛いだろ―。俺を褒め称えろ。」
腰に手を当てて、ギルベルトは自慢げに言う。
「おまえを褒め称えてどうするんだよ。」
アーサーはギルベルトをけなしながらも、ユリウスの顔を見ると強くでれなかった。
ギルベルトに顔立ちは見ているが、そのつぶらな目尻の垂れた大きな瞳が、本当に可愛らしくてたまらない。その上赤ん坊でぷくぷくの可愛らしい時期だ。
「…ユリウス?」
恐る恐るアーサーは赤子の名前を呼んでみる。母親の名にちなんでつけられたという彼の名前。
「やー!」
手を上げて、嬉しそうにユリウスは答えてみせる。
「やー、やー!」
はい。と返事をしているらしい。何度もそういう姿は、とても可愛い。むかつく知人の子供だというのに、思わず頬が緩んでしまう。
「今度、子供用の質の良いコートでも、持ってこようかな。」
アーサーは思わずそう口にしていた。プロイセンはイギリスよりも寒い。きっと幼い彼には必要なものになるだろう。
はその呟きを聞いて苦笑する。
「きっと来年になれば大きくなっていますよ。」
子供の成長は早いものだ。ならば、少し大きいサイズのものを贈ろう。大きくなって使えるようにと、アーサーは幼い子供に初めて愛しさを感じた。温かい体温が、心地よかった。
知らぬ温もりこそかけがえなきもの