「はぁ、アーデルハイト・ヴィクトリア。また、強そうなお名前ですこと。」
はギルベルトがつけた名前を別に反対する気はなかったが、随分逞しい名前だなとは感じた。
「あぁ、微妙か?」
「いえ、良いと思いますよ。」
はそう答えたが、内心は複雑だった。
男児であるユリウスの名は国王であるフリードリヒが頂いたものだったので、ギルベルトが名を子に与えるのは初めてだ。随分悩んでいるのは知っていたが、まさか古いドイツ語からアーデルハイト、ミドルネームは『勝利』だなんて考えなかった。
ネーミングセンスがあるか、と聞かれると、いまいちだと答えざる得ないが、夫と息子は至極楽しそうだったので、は黙っていることにした。
「ね。とうさまそっくりだよね。」
ユリウスは嬉しそうに母であるに主張する。
「ギルベルトに似て、きっと美人さんになるでしょうね。」
は子供の顔をのぞき込む。
ユリウスよりも髪の毛がふかふかだが、やはり銀髪で、目の色は紫色だ。顔立ちはどちらに似ているかは分からないが、少しつり上がり気味の目がギルベルトによく似ている気がした。ユリウスもギルベルトに似ているが、目元は似で下がっていて柔和に見えるので、もしかするとこの赤子の方がギルベルトに似ているかもしれない。
「、体調は?」
ギルベルトはの肩を軽く叩く。
「大丈夫ですよ。調子が悪いわけではないのです。」
は心配してくれるギルベルトに穏やかに返した。
一人目の時は出産後に気を失った上、何日間も起きないなど大変だったが、今回は二度目と言うこともありもう慣れたものだった。ユリウスの時ほど難産でもなかったので、回復も早そうだと医師も言っていた。
熱も出ていない。
「この調子だと来月には、フォンデンブローに戻りますよ。」
はギルベルトを窺うようにしながら、言う。
プロイセンと他国の戦争が始まるかも知れない。元々出産し、体調が整えばすぐにフォンデンブロー公国へ戻る予定だった。ましてやフォンデンブロー公国は目立ってどちら側の国とも敵対していないため、中立を保つ予定だ。プロイセンより遙かに安全である。
しかしそれはギルベルトの別離を意味する。彼はプロイセン王国の将軍で、プロイセンに残って軍を率いて戦う。
「あぁ、できる限り、早く国に戻れ。」
ギルベルトはの腕の中にいる赤子を愛おしそうに見つめながら、言う。そこには悲しみや寂しさは窺えず、ただ、ただ、愛おしそうで、酷く幸せそうだった。
「ノイエルーフェンの宮殿で執務をとるのか?」
「えぇ、そうですね。しばらくはあちらの方が気候が良いですから。」
はギルベルトの問いに頷く。
通常フォンデンブロー公国の首都はヴァッヘンで、ヴァッヘン宮殿を行政の要としているし、フォンデンブロー公が代々住まうのもヴァッヘン宮殿だが、夏場はノイエルーフェンにあるアルトルーフェン宮殿に居を移すことが多かった。
本来なら後継者が使う宮殿だが、まだ後継者であるユリウスが幼いこともあり、今や完全に夏の離宮といった感じだった。
ノイエルーフェンは山と川が近いため景観が非常に美しく、夏場は過ごしやすい。も妊娠と移動で疲れているため、静養にももってこいだった。
「そりゃ良い。アーデルハイトにもきっと良いさ。あそこは美しい。」
ギルベルトは緋色の瞳を優しく細めてアーデルハイトの頬を撫でる。
ノイエルーフェンへは結婚してから、何度か一緒に訪れたことがある。特に山があり、良い狩り場がある上、ギルベルトはアルトルーフェン宮殿を至極気に入っていた。宮殿とは名ばかりの増改築を繰り返した歪な作りのアルトルーフェン宮殿だが、千年前からの屋敷跡がおかげで綺麗に残っている。時代を感じさせる歪さが、ギルベルトは気に入っている。
「アルトルーフェン宮殿で暮らすの?やった!」
ユリウスは嬉しそうに手を振り上げる。
「あら、貴方もあちらのほうが好きでしたっけ?」
「だってあそこ、探検とか出来て面白いじゃん」
入り組んでいる構造は子供にとっては良い遊び場らしい。
なるほどなとは思いながらギルベルトを見つめる。子供を抱くギルベルトは酷く幸せそうで、なんの影もない。それがあまりに不自然すぎて、は目を伏せる。
「ぼく、ちょっとクラウスと遊んでくるよ。」
ユリウスがぴょんっとはねてカウチから下り、別の部屋に駆けていく。
「おぉ、気をつけろよ。」
ギルベルトはユリウスに声をかけてから、の方を見て首を傾げた。
「なんだよ。」
「え?」
「ぼっさーとして、体調でも悪いのか?」
心配そうに言われて、は慌てて首を振る。
「違いますよ。大丈夫です。体調もユリウスの時ほどは悪くないです。」
「おまえもちょっとはしっかりしろよ。一応、フォンデンブローだって油断してらんねぇんだから。」
「あ、まぁ、そうですけど。」
数年前までプロイセンやイギリスと同盟関係にあったフォンデンブロー公国だが、既に同盟条約は時候で、鉱山資源を英仏普墺のそれぞれに輸出している。もちろん、英普への優遇措置は変わらないが、現在オーストリア、プロイセン両国共に敵対関係をとられるいわれはない。
イギリスとの極秘の軍事同盟が、発覚しない限りは。
フォンデンブロー公国はハノーファー選帝侯国の隣に飛び地を持っている。ハノーファー選帝侯国とイングランドは同君連合の状態にある。要するにどちらも同じ国王を抱えているのだ。はその立地を利用し、飛び地から隣国であるハノーファーへ、ハノーファーからイングランドへと極秘に鉄鉱石などを輸出している。
多くの植民地を抱えるイギリスは豊かな国で、お金に関しては沢山持っているが、本国に鉱山資源を沢山持っているわけではない。また、植民地でフランスとの戦争を常に抱えるイギリスにとって、本国の近くに鉄鉱石を供給できる地域は、必要だった。
フォンデンブロー公国はオーストリアやフランス、イギリスやプロイセンに比べれば小国だ。非常に強い独立心を持つため、併合が難しいとは言え、鉄鉱石などの鉱山資源を持つフォンデンブロー公国は何度となく大国の侵略を受けてきた。
可能性が、ないわけではない。
「大丈夫でしょう。しばらくは、引きこもり生活ですね。」
はそう言って、隣に座るギルベルトの頬に手を伸ばす。
「それで良いんだよ。出産で疲れてんだ。しばらくじっとしてろ。」
ギルベルトは笑ってアーデルハイトごと、を抱きしめた。流石に両親の間に挟まれて居心地が悪いのか、ごそりと赤子は動く。
「ねぇ、ギル。はやく、戻ってきてくださいね。」
思わず、はその言葉を口に出した。行くなと言うことは出来ない。プロイセンの軍人として誇りを持つ彼に、行くなと言えないことは、とて理解していた。
しかし、幼い頃去って逝った、今は亡き人を思い出せば何も言わずに送り出すことなどできようもない。
「信じて、待ってますから。」
緋色の瞳を見上げれば、ギルベルトは少し驚いた顔をしたが、すぐに相好を崩す。
「当たり前だろ。俺の帰る場所は、ここしかねぇよ。」
愛おしそうにアーデルハイトの頬を撫でながら、彼はの頬に口づける。
「心配すんな。俺はぜってぇ帰って来る。だからおまえは子供たちと一緒に、安心して待ってろ。」
彼の強い言葉で背中を押されるようには頷いた。信じていないわけではない、でも喪失の悲しみは今でも薄れることはない。戦争は大嫌いだ。それでも、一番辛いのは戦いに行くギルベルトだろう。
は悲しみを押し殺して、少し不器用に笑った。
「あんまり長いと、アーディーが知らない人と勘違いして、お父様の顔を見て泣くようなりますよ。」
「そりゃひでぇな。」
ギルベルトはの態度に気づいたかも知れない。だが、の冗談に楽しそうにケラケラと笑った。
ただ信じて待つことしか出来ないけれど