1756年7月の終わり、フォンデンブロー女公と公太子ユリウス、そして生まれたばかりの第一公女アーデルハイトはベルリンからフォンデンブロー公国に戻ることとなった。




「おもしろくないなぁ…馬車の旅か…。」





 ぶうっと音を立てて頬を膨らませて、ユリウスは不満そうにベルリンの屋敷前に止められた立派な馬車を見つめる。





「退屈だよ−。アルトルーフェン宮殿に着いたら、近くで狩り、しても良い?」

「おまえなぁ、」 





 子供らしくごねるユリウスにギルベルトはアーデルハイトを抱いたまま小さく息を吐く。






「しっかりしてくれよ。おまえ。」






 ギルベルトがベルリンに残ることを考えれば、ユリウスは家の中で唯一の男児と言うことになる。まだ6,7歳の子供に重荷を背負わすのもどうかと思うが、もう少ししっかりしてほしいと思うのはギルベルトの贅沢だろうか。




「わかってるよー。」




 ユリウスは口を尖らせて反論して、近くにいたクラウスに抱きついた。クラウスは慌てた様子ながらもユリウスを抱き留める。

 フォンデンブロー女公が国元に戻ると言うことで、随行員は多いが、8割は軍人だ。戦争が迫っているため、様々な国に留学していたフォンデンブロー公国の士官たちも多くが国に戻ることとなっている。それはベルリンにいる仕官やクラウスも例外ではなく、クラウスはベルリンの士官学校に通っていたが、ユリウスに随行してフォンデンブロー公国に戻ることになっていた。

 そのため、今回の帰国はなかなかの大所帯となっている。





「ユリウス様、望遠鏡をお忘れですよ。」




 ユリウスの乳母のルイーズがやってきて、ユリウスに望遠鏡を渡す。

 それはフリードリヒがユリウスに狩猟の折に下賜したものだ。大切にしているが、どうやら朝食を食べた時にテーブルの上に置き忘れたらしい。





「あ。忘れてたー。」




 ユリウスはクラウスから離れてルイーズから望遠鏡をもらう。



「ルイーズ、悪いが、ユリウスを頼むぜ。」





 ユリウスはギルベルトの言うことを良く聞くが、の言うことは聞き流すことも多い。そう言った時、はもちろん困るが、幼子がいるため、もユリウスから目を離すことが増えるだろう。直接的に当たられるのはルイーズである。

 ギルベルトはルイーズに告げると、彼女は少し驚いた顔をして眉をつり上げた。見たこともない彼女の表情に、ギルベルトの方が驚いた。





「当然です。命に代えましても。」





 緑色の瞳には、強い意志の色がある。

 ルイーズは比較的穏やかだが、決して弱い女性ではない。そこが気に入って、はユリウスの乳母にルイーズを選んだ。






「あぁ、我が儘だからな。こいつは。」

「痛いよ!とうさま痛い!!」





 息子の頭をぐしゃぐしゃにかき回すと、彼は不満を丸出しでギルベルトの膝を思い切り叩いた。





「荷物の運び入れは終わりましたね。忘れ物は、ないかしら?」




 は準備の様子を見ながら、額に指を当てて考える。





「おいおい、早早簡単に帰れる距離じゃねぇからな。まぁ、全部フォンデンブローには揃ってるだろうけど。」





 プロイセンと違ってフォンデンブローは小国だが、豊かな土地柄だ。農作物の種類も鉱山資源、木材も豊富、商業も発展しているため下手をすればプロイセンよりも何でも揃うだろう。




「そうですけど、あ、アウグステ。アーデルハイトは。」

「大丈夫ですわ。こちらに。」





 アウグステはアーデルハイトを抱いての隣へとやってくる。

 新たにアーデルハイトの乳母として選出されたのは、鉱山の街アガートラームの貴族であるクライスト伯爵家の娘で、ランツフート男爵夫人アウグステだ。夫はプロイセンの将校だった。息子もベルリンの士官学校に通っている。赤毛が印象的な気の強い女性で、より年上の27歳だ。






「起きていらっしゃるけどご機嫌ですわ。」

「あら、騒がしいからご機嫌斜めかと思ったのに。」





 は頬に手を当てて言う。

 今日は皆忙しく、人の出入りも激しい。少しぐらい機嫌を崩していてもおかしくはないのが、相変わらず楽しそうに紫色の瞳を瞬かせていた。





「本当に孝行な娘ですね。」





 アーデルハイトはユリウス以上に図太い性格らしい。ついでに体も強い。

 数ヶ月もすれば一度くらい体調を崩しても良い所だが、こちらが心配になるほど健康で、毎日順調に体重を増やしている。本当に食事などようがない時は周りで誰が何をやっていようと爆睡か、もしくはきゃっきゃと機嫌良く笑っている。数ヶ月たつと周りの様子も分かるのか、ギルベルトが抱くといつも髪の毛を引っ張ろうと手を伸ばしてきた。





「アーディ、」





 ギルベルトはアーデルハイトを抱き上げる。可愛い生まれたばかりの娘は、父親に声を上げて笑った。




「本当に、アーディはギルによく似てますね。」






 はしみじみと言った。





「そうか?」

「そうか?じゃありませんよ。見てください、このつり上がった目。精悍な顔つき。」




 もしかしてぐらいには思ったが、彼女に言われてギルベルトは改めて娘の顔を見つめる。

 確かにの言うとおりつり上がった目はそっくりだったが、まだ幼いし、赤子であるためギルベルトにはいまいち自分との接点が大きいようには思えなかった。

 父親にじっと見られるのはいたたまれなかったのか、娘はむずがってごそごそとギルベルトの腕の中で動く。そして、ふにゃっと顔を歪めた。






「ふぇ、」 





 小さな手でギルベルトの服を掴んで、ふぇ、ふぇと息を乱して泣き出す。





「え、あれ?なんだ?」




 ギルベルトは珍しい娘のぐずりにの方を見る。




「先ほど乳もあげたのですけどね。」




 は困ったような顔をして娘を抱き上げ、娘の頬をくすぐるがなかなか泣き止まない。出発の準備は着々と進んでおり、あとはとユリウスが馬車に乗るだけだ。




「どうした?アーディ?」




 娘の銀色の髪を優しく撫でる。細くて、でも固い髪はギルベルトの髪と同じだ。アーデルハイトはふと泣き止んで、涙で潤んだ紫色の瞳で娘はギルベルトを見上げてきた。その瞳の色合いが、酷くに似ていた。

 は泣かなかった。




 フォンデンブロー公国に戻ると決まった時も、ギルベルトが残るといった時も、泣かなかった。前はよく泣く、ただの少女だったのに、ここ数年で本当に大人になった。もう24歳になるのだから、少女と言える年頃ではなくなった。女だ。

 ギルベルトはを窺う。

 娘が泣くので少し戸惑った顔をしているが、落ち着いている。人の命は短く、成長は早い。それでも、ギルベルトの気持ちは彼女を愛おしいと思った日から全く変わっていない。





、おまえは自分を大切にしろよ。俺は大丈夫だから。」




 ギルベルトは国だ。簡単には死なない。だが、は違うのだと言うことを、ギルベルトはかつて、誤報であったの訃報を受けて理解した。

 かつて、は国の統治者で、プロイセンそのものであるギルベルトは、彼女の国とイングランドが同盟を結んだ時、アーサーに対して妬けるような嫉妬を覚えた。どうして彼女はプロイセン人ではないのか。彼女の国が自分以外を求めるのが嫌だった。彼女がイングランドを求めた気がして、征服してしまいたいとすら思った。

 けれど、今は彼女が他国の統治者でよかったと思う。

 他国の人間だから、戦争に巻き込まれない。統治者である上、女だから、もし彼女の国が戦争に巻き込まれても、よほどのことが無い限り彼女が殺されることはないだろう。





「体を、大切に。必ず帰ってくるから。俺が帰ってくるまで、しっかりしてろよ。」





 戦争が難しい局面であることを、ギルベルトは既に理解していた。

 けれど何年かかっても、国であるギルベルトには望みがある。簡単には死なないから、彼女の元に戻る希望がある。

 彼女さえ、子供たちさえ生きていれば、愛おしい人たちに会うことができる。





「えぇ、待っています。わたしたちは、待ってますから。」





 必ず帰ってきてください、とは悲しげに、けれど笑ってそう言った。柔らかな笑み、寂しい笑みではあったけど、やはり彼女は泣かなかった。










  せめて笑って見送りたいから