馬車の車窓から見る風景は、一面森林で面白みの欠片もない。ユリウスはちらりと母の様子を窺う。綺麗な陰った緋色の壁紙の貼られた馬車の中で、彼女はずっと父に見送られてベルリンを出てから俯いたままだった。
彼女に抱かれた赤子の妹アーデルハイトはずっとぐずっている。
「かあさま?大丈夫?」
ユリウスは母の膝に手を置く。
「大丈夫ですよ。ありがとう。」
母は少し寂しそうに、柔らかに微笑んで、ユリウスの頭を撫でた。
ユリウスは母の膝に頭を置いて、揺れる馬車の振動を感じる。あちこちにクッションが置かれているから、耐えられない程の振動ではなかったが、眠れる程とは思えなかった。
「体調が悪いようでしたら、出産後、まだ数ヶ月ですもの。気をつけるに超したことはありません。」
ゆったりとした調子で、ルイーズがの体を心配する。
「そうですわ。道のりは長いです。無理はしてはいませんわ。」
アーデルハイトの乳母となったアウグステも心配そうにをのぞき込む。
ベルリンからいくつかプロイセン領内にある屋敷や宮殿を使い、フォンデンブロー公国のベンラス宮殿、シューネンホイザー離宮を通ってから、ノイエルーフェンに入る。冬まではノイエルーフェンにあるアルトルーフェン宮殿で過ごすことになるだろう。
かなりの長旅だ。は出産してから数ヶ月しかたっていないため、旅程は焦らない、休憩はちゃんととるというのが大前提になっていた。
「大丈夫です。体調も大分整っていますし。」
は二人の心配に首を振って、ユリウスの頭を撫でた。
「あ、」
馬車が止まり、扉をノックされる。
「はい?」
が顔を上げると、外から扉が開いた。
「休憩だそうです。川辺が近いので、そちらで食事をと。」
将校のクライスト中尉がユリウスに手をさしのべる。
「ありがと。」
ユリウスは笑って、一番に馬車の外に出た。続いてルイーズとアウグステ、そしてアーデルハイトを抱えたが最後に外に出る。
夏場の強い日差しを遮るために人々が天幕を作ろうとしているところだった。だが、川沿いなので、強い日差しと共に涼しい風が森の中を吹き抜けていく。ユリウスが髪を押さえていると、母は近くに用意された椅子へと腰を下ろした。
少し疲れ気味の母に変わって、乳母のアウグステが妹のアーデルハイトを抱く。
「ユリウスもこちらにいらっしゃい。まぶしいでしょう。」
天幕の下にいるがユリウスに手招きをする。
「うん。」
ユリウスも流石に暑さを感じての近くへと足を運んだ。
あちこちで火がたかれ、昼食の用意がされる。沢山随行している将校や女官が談笑するのをユリウスはぼんやりと眺めていたが、は将校などから旅程についての報告を受けていた。
「そうですね…、アプブラウゼン侯爵領からフォンデンブロー公国へ入るか、ベンラス宮殿の近くからか。うーん。」
「なに?」
「いや、どちら側から入ろうかと思って。」
は地図をユリウスに見せる。
フォンデンブロー公国とプロイセン王国との接続地域は、プロイセン王国アプブラウゼン侯爵領とプロイセン王国国王直轄地の二種類がある。どちらから入っても問題はない。アプブラウゼン侯爵領は今、ユリウスの父であるギルベルトの領地であり、プロイセン国王の直轄地に関しても、賓客でもあるフォンデンブロー女公には最大の便宜が図られている。
どちらから入っても問題はない。
「でも、かあさま、アプブラウゼン、嫌いでしょ?」
が即位してすぐ、フォンデンブロー公国はアプブラウゼン侯爵領に攻められた。国境付近にあることを利用し、アプブラウゼン侯爵領はオーストリアと手を組み、本来の宗主国であるプロイセン王国の意に反してフォンデンブロー公国の銀山を占領したのだ。
ユリウスの生まれる前の事件であるため詳しくは知らないが、はかなり苦慮したと言うから、アプブラウゼン侯爵領にあまり近づきたくないという気持ちも分からないものではなかった。
「ベンラス宮殿にはプロイセン国王の直轄地の方が近いでしょう。それにぼく、ベンラス宮殿に行ったことないから、行きたいな。」
ユリウスは母の顔色を窺いながらそう結論づけた。
クライスト中尉は幼いユリウスの決定に従って良いのか、困ったようにを見ている。は少し考えるそぶりを見せたが、ユリウスの意志にあっさり沿うことにしたようだ。
「そうですね。プロイセン国王の直轄地から入らせてもらいましょう。」
「わかりました。そのように手配いたします。」
クライスト中尉は頭を下げて、書類を持って近くの兵に指示を出すべく場を辞する。
それと入れ替わるように果物などを持った女官のエミーリエがたちの元へとやってきた。
「あとで温かいスープなども持ってきてくださるそうですわ。」
出産後すぐのの体調を気遣ってか、ルイーズがやってきてに耳打ちをした。女官たちが将校たちと談笑している。それをユリウスはぼんやりと見ていたが、エミーリエの言葉に顔を上げる。彼女は不安そうな声音で呟くように言った。
「それにしても、軍隊の動員が始まっているのでしょうか。」
フォンデンブロー公国へと向かう道すがら、いくつかの都市を通った。都市などに軍隊は常に駐屯している。だが、その軍隊がにわかにざわついているのは、誰に目には明らかだった。またプロイセンにいたフォンデンブロー公国出身の将校たちも沢山随行して国へと帰るので、どうしても軍隊の情報がたくさん入ってくる。不安が煽られるのは当然のことだ。
「わたくしたちが何か出来るわけではありません。ですから、落ち着いているべきです。」
ユリウスの乳母のルイーズはエミーリエを諫めるように穏やかに言い返す。
確かに、戦争が起こったとしても、女官であるルイーズやエミーリエに出来ることはない。だから、ルイーズの発言は当然のものだった。だが、ルイーズとて戦争が好きなわけではないだろう。
彼女の夫はスコットランド貴族で、アメリカ大陸でのフランスとの小競り合いに巻き込まれて亡くなった。まだ20代後半の彼女だが、ユリウスが生まれる少し前の話だ。三人の子供を抱え、追われるようにフォンデンブロー故国に戻り、偶然ユリウスの乳母に選出されたのだ。
もし乳母に選出されなければ、おそらく彼女の生活は非常に危なかっただろう。
「…」
ユリウスは知っている。女たちの誰もが不安を押し隠している。
男は戦いに出向く。その選択に迷いはない。国のため、家族のため、戦わなければならない。しかしその反面残されていく女性の末路は悲惨だ。偶然生活の糧を得られた人は良い。だが、得られなかったらどうするのだろうか。
母であるを見上げると、彼女も複雑そうな表情でエミーリエやルイーズの話を聞いていた。
「だいじょうぶだよ。いざとなったら、ぼくがみんなをまもってあげるよ。」
ユリウスは少し頬を膨らませて、の膝を叩く。
「ユーリ?」
母のは驚いた顔をして、ユリウスの頭を撫でた。
「だいじょうぶ。ぼくは賢いんだ。これからもっとかしこくなって、みんなをまもるよ。」
「まぁ、」
ルイーズが口元に手を当ててふふ、と笑う。
「それは頼りがいがありますわ。そうですね、フォンデンブロー公国は安泰ですね。」
まだ年端も行かぬ公太子の言葉に、エミーリエも先ほどの不安そうな顔が打って変わって明るくなる。
幼いユリウスの言葉には、当然なんの効力もない。それでも公太子であるユリウスが言うことに意味があるのだと、ユリウスは知っている。
「…もぅ、大人びたことを言って、」
母はゆったりと自分の亜麻色の髪を掻き上げ、微笑んだ。
「そういう限りは、我が儘は控えてほしいものですね。」
「ぶー別にわがままなんて言ってないもん。」
「この間新しい大砲がほしいとか言っていたのはどこの誰でしたか。」
どうせ口論では勝てはしない。ユリウスは母の反論に母の膝を軽く叩いて答えた。
1756年8月29日、七年戦争はプロイセンによるザクセンへの先制攻撃を持って、開戦した。その知らせをユリウスが受けたのはフォンデンブロー公国のノイエルーフェンでのことだった。
そして世界は回り始める