フリードリヒ2世によるザクセンの攻撃は大きな波紋を呼んだ。
一応ザクセンは中立を装っていたため、批判がプロイセンに集中したのだ。またプロイセン国内にも反対派は多く、先制攻撃は国際情勢的にプロイセンに不利に働いた。フランス王ルイ15世やロシアの女帝エリザベータからも非難の声が上がり、同時にザクセンを支援することに同意した。
不運なことに、ザクセン選帝侯兼ポーランド王であったアウグスト3世(フリードリヒ・アウグスト3世)の娘ジョゼフ・ド・サクスはフランスの王太子妃であり、プロイセンがザクセンを攻めたことはフランスの王太子妃を悲しませ、またフランス王の哀れを誘うことになった。
こうして、プロイセン包囲網は確実に構成されることになった。
はその知らせを、執務をとっていたノイエルーフェンで知らされた。秋の収穫祭が迫る中、は公太子のユリウス、アーデルハイトを連れて首都のヴァッヘン宮殿へと戻ることになった。
「資金援助と、兵員補助…」
はぁ…、といった感じで、は頬に手を当ててとぼけて見せた。
目の前に座っているのは、オーストリアの大使としてやってきたローデリヒ・フォン・エーデルシュタインとハンガリー人の女性エリザベータだ。オーストリアへの資金援助をフォンデンブローに頼みにやってきたのである。
ギルベルトとの結婚式と、その後の戦争において顔を合わせているため、面会は3度目だが、ギルベルトなしで会うのは初めてだ。
フォンデンブローは政府としては完全なる中立を装っており、海側の飛び地からのイギリスへの鉄輸出も、プロイセン軍への農作物の補給も、一応秘密裏、もしくは商人のビジネスであり、一切フォンデンブローは関わっていないというスタンスを固持していた。
プロイセンとオーストリアに挟まれる立地のため、どちらかに敵対行為をとると攻められる恐れがあるため、と言う建前を貫いている。
「あなた方は神聖ローマ帝国のはずです。祖国のために、どうか兵員をおかしいただけないでしょうか。」
ローデリヒは紫色のとも通じる瞳を細めて言った。はそれにふっと笑う。
「古き祖国ですね。」
ゆったりとした口調で言って、紅茶をすする。
「貴方、国の統治者でしょう?国の利益を一番に考えるべきじゃないの?」
エリザベータは酷く偉そうな口調でに意見した。
はそれに紫色の瞳を細めてしばし逡巡したが、考えが変わる理由にはならなかった。と言うのも、軍も議会もオーストリアへの援助には、大反対だったからだ。
かつてフォンデンブロー公の正式な跡取りとなったの夫に、プロイセンの将軍を迎えることは、フォンデンブロー国内に反対も大きかった。なぜならオーストリア継承戦争の折、プロイセンとの戦いによって、フォンデンブロー公太子カール・ヴィルヘルムが戦死したからだ。
だが同時に、フォンデンブロー公国軍はオーストリアのことも嫌っている。
なぜならオーストリア継承戦争の際、神聖ローマ帝国側についたフォンデンブロー公国に、なんの援軍も援助もせず、オーストリアは傍観していたからだ
がプロイセンの将軍と結婚し、彼との間に生まれた公太子ユリウスの存在はフォンデンブロー側のプロイセンへの感情を大いに改善した。だが、オーストリアに対する感情は全く変わっていない。
どうして、我らを見捨てた。
議会も軍も、二度とオーストリアによろうとはしない。また見捨てられる可能性を考えているからだ。特に現在、プロイセンとの交流は民間、政府レベル共に盛んだ。プロイセンが不利だとは言え、中立を装っていれば攻められない。
ならばわざわざ自分たちを見捨てたことのあるオーストリアを援助しようなどとは、議会も軍も絶対に思わないだろう。
中立を保てないほどプロイセンが負け、オーストリアに味方せずにはいられなくなるまでは、資金援助も援軍も絶対しない。それが議会と軍の共通の意見だった。
「議会があなた方に答えを返したはずです。」
は難なくそう返した。議会からの回答はオーストリア側も既に受け取っているはずだ。それなのにフォンデンブロー公のの所までわざわざやってきたというのは、どうしても資金援助の確約がほしいという所だろう。
「貴方はフォンデンブロー女公です。議会の決定を覆すのは、たやすいはずです。」
ローデリヒは言いつのる。
確かに、フォンデンブロー公には議会決定を拒否する権利がある。だが、が即位してから拒否権を行使したことは全くない。
「わたしは、そういったことをする気はありませんから、議会とお話し合いくださいな。」
は立ち上がり、庭を眺めて完全に請け合わないと示す。
前庭には美しい湖が広がる。森に囲まれた中の湖に、白鳥が泳いでいる。もうそろそろ冬がやってくるだろう。外では若手の将校たちに囲まれたユリウスが楽しそうに笑っている。
「子供が今年生まれたばかりで、わたしも忙しいので、しばらくはゆっくりしていたいのです。」
は小さく息を吐く。
父であるギルベルトがいなくなったことはユリウスの成長を促すためには良かったのかも知れない。戦争は決して良いとは思えないが、ユリウスはギルベルトの代わりにたちを守ろうと自分に出来ることを精一杯やろうとしている。
「確か、姫君であったとか?」
「えぇ、元気な女の子です。」
はローデリヒに頷いて振り返り、微笑む。
「…、」
ローデリヒは複雑そうな表情をした。
そういえば彼はギルベルトと知り合いだったはずだ。何か思うところがあるのだろうかと首を傾げると、エリザベータの方が口を開いた。
「あなた、そういえば他にも子供がいるんですっけ?」
「えぇ、公太子のフリードリヒ・ユリウスがおります。あそこに。」
窓の外を指さすと、同じようにエリザベータとローデリヒも立ち上がり、窓の外の庭を見る。ここは二階なので、風景もよく見える。前庭にいる7歳過ぎた息子は、将校たちに言われてたちに気がついたのか、手を振る。は彼に手を振りかえした。
「かなり賢いというお噂ですが、おいくつですか?」
「今年で8歳になりました。」
「バイルシュミット将軍とは、仲睦まじいご様子とか。」
ローデリヒが鋭い瞳で尋ねてくる。
だから、オーストリアへの援助を断るのだろうと言外にこちらを攻めているのだろう。その感情を、は隠すつもりはなかった。
「そうですね。非常に幸運であったと思っております。」
明らかな政略的な結婚だ。諸外国皆知っている。だが、とギルベルトとの結婚は誰の目から見てもうまくいっていた。
王族や統治者の結婚は政略的なものも多く、仲睦まじかったとしても挨拶をして会わなければならない、他人行儀な親子も多い。子供がたくさんいても、浮気などを繰り返す夫も多い。だがギルベルトは婚約当初こそいろいろあったが、結婚してからは誠実そのものだった。
が元々統治者として育っていない上、前のフォンデンブロー公は既に老齢で女官たちもほとんどいなかったため、昔あった親子の間の儀礼的なふれあいは完全になくなり、廃止された。
「わたしが望んでいるのは、夫と、子供たちと共に穏やかに暮らすことでございます。」
隣に立つローデリヒを見上げては言う。
「それ以上も、それ以下もありません。わたしにとって、子と夫がすべてです。」
最近思うのは、おそらく自分は統治者でなくとも、子供と夫がいれば幸せだろうと言うことだ。統治者である限りはと努力はしてきた。しかし、一番に考えてしまうのはやはり、子供や夫のことで、国はその次のような気がした。
それが統治者としてはいけない考え方だとは理解している。でも、やはりは女で、生み出す性なのだ。
「…我らを助ける気はないと言うことですか。」
「議会に掛け合いください。議会が言えば、考えましょう。」
ローデリヒの確認に、はそう返した。
ただ、議会もそう簡単にはイエスの答えは出さないだろう。それが分かっているからこそ、は強気に返すことができる。
「それに、貴方はお忘れですか。わたしはもともとカール公子と結婚する予定だったのです。」
恨みが、あるわけではない。だが、あの時の悲しみをは今も忘れたことはない。瞼の裏に喪失は今もあり続けている。援軍を送らなかった貴方たちを許さないと、思っているわけではない。ただ、今も去りゆく彼の背中を、忘れられないのだ。
「お忘れ召されるな、フォンデンブローは、未だに彼を忘れられない。」
議会も、軍も、そして自身も。今も引きずり続ける傷がある。
消えないトラウマ