年が明ければ、春先に生まれたアーデルハイトは徐々に言葉を発するようになった。

 周囲のことが分かってきた娘のために、はギルベルトの肖像画を壁に掛けた。帰ってきて、娘が父親のことをわからないというのは、あまりに彼が可哀想すぎる。彼は相変わらず冬の間もこまめに手紙を送り続けてきていた。

 雪解けを待ち、また軍隊は動き始める。

 ボヘミア(現在のチェコ)の方面へとプロイセン軍が動き出し、ライヘンベルグReichenbergに向かっているとの報告を受けていた。プロイセン軍を率いるはシュレジェンから出てきたベーヴェルン元帥。迎え撃つはライヘンベルグに駐屯するケーニヒセグ伯爵Graf von Konigseggだろう。目指しているのは明らかにボヘミアの中心地、プラハで、当然守りも固い。ライヘンベルグへの侵攻はその前座とも言える。

 フリードリヒ2世と共にいるギルベルトは今ザクセンにいるようだから、ザクセンからプラハ方面へと攻めていくのだろう。

 プラハを狙うフリードリヒ2世に不安になりながらも、に出来ることなど知れているため、静かに戦局の報告を待つしかなかった。

 特にフォンデンブロー公国が持つ飛び地で、ハノーファーの隣にあるアイゼンにフランス軍が近づきつつあった。敵対国であるハノーファー(イギリスと同君連合)を占領するためである。

 そちらの危惧にかかりきりのは、なかか表だってギルベルトらと連絡を取ることは出来ず、また自分自身もその報告におわれていた。




「こんにちは。」




 そう言って笑顔でへの謁見に臨んできたのは、イヴァン・ブラギンスキと名乗るロシアの大使だった。




「君がフォンデンブロー女公様か。」




 銀色の髪が印象的な彼は、大きな体に立派な軍服を着けてやってきた。あちこちから金を無心されていたはロシアからの申し出も中立の旨を相変わらず宣言して乗り切っていたが、彼の目的はどちらかというと、お金ではなさそうだった。

 無邪気な紫色の瞳が、に対する好奇心をたたえている。





「ふぅん、結構普通の美人さんだね。」





 彼はを見てそう評した。

 は眉を寄せたが、不思議な彼の空気に首を傾げる。謁見を求めてきた割に彼は書類も何も出してこない。本当にただ興味だけにここに来た。そういったそぶりだった。




「…あなた、」



 何をしに来たの、と、は心中で呟いたが口には出さず、ただ訝しげな視線だけを向ければ、彼も気づいたのだろう。にこりと笑った。




「ギルベルト君の妃を、見てみたかったんだ。」




 悪意も何もなく、彼は言った。




「ギルベルトの、知り合いですか?」




 は首を傾げて尋ねる。

 彼がロシアにいたなどという話は全く聞いていない。プロイセンの土地柄ロシアに近いと言えば近いが、彼が行ったという話は聞いていない。彼は随分と顔が広いので何とも言えなかった。フランス、スペイン、様々な場所に、彼は友人というのか、知人を持っている。




「初めまして、僕はイヴァン・ブラギンスキ、ロシアだよ。」




 その自己紹介には首を傾げた。




「ロシア人ですか。知っていますが。」




 ロシアの大使としてきているのだ、ロシア人に決まっている。外交を任せる人物に、まさか他国人を用いたりはしないだろう。

 するとイヴァンと名乗る彼は、少し驚いた顔をした。




「え?君、…」




 じっとイヴァンはを見つめた。が不思議そうな顔を変えないでいると、さもおかしそうにケラケラと笑う。




「そうか、そうか、なるほどね。君は何も知らないのか。」




 納得したように、でも酷く面白いと笑う姿は、意味の良く飲み込めないにとっては不快以外の何物でもない。思わず眉を寄せれば、イヴァンは口元を押さえた。




「ごめんね。子供まで作ったって言うのに、君は何も知らないんだと思ってね。」

「…どういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。君は彼のことを何も知らない。」




 彼、とはギルベルトのことだろう。イヴァンは未だに笑って、に言う。




「ギルベルトは、わたしの夫です。何も知らないとは失礼ではありませんか?」




 はこの10年以上の間、ギルベルトと連れ添ってきた。

 彼の旧友だとしても、イヴァンにこれほど無知だと罵られるいわれはなく、日頃では珍しくは彼に対して反論した。だが、イヴァンは肩を竦める。




「君は彼がどこで生まれたかを、知ってる?」




 まるで秘密の話をするように、人差し指を唇に当てて彼は尋ねてきた。




「…マルボルクの近くだと聞いておりますが。」




 が知るギルベルトの生地は、そう聞いている。マルボルクはポーランドの一都市である。ドイツ騎士団の城のある有名な地だ。

 両親はバイルシュミット公爵家の傍系で、幼い頃からフリードリヒに仕えており、その功があって本家の絶えたバイルシュミット公爵の地位と領地を治めている。そう聞いているし、プロイセン国王が保証している彼の地位が嘘とは思えない。

 は確かに婚約が決まった当時はただのアプブラウゼン侯爵令嬢で、かつフォンデンブロー公国公女の娘だっただけだったが、それでも家柄のしっかりしない人間と結婚させられるほどの低い身分ではない。




「そう、だから君は何も知らない。君は彼に対して何も疑問に思ったことがないの?」

「何がですか?」

「年齢、とか。」




 は彼に言われ、ぴくりと眉を動かす。

 確かに、それを疑問に思ったことはある。ギルベルトはとの結婚当時既に23,4歳だと聞いていた。より十も年上で、今年23を数えたなので、ギルベルトは30半ばでなくてはおかしい。なのに、彼の容姿はと結婚してからもあまり変わっていない。

 今や大体と同い年ぐらいに見られている。

 それについて疑問に思ったこともあった。だが、日頃様々な雑務に追われるにとって、それはあまりに些末な問題で、また仮にそうだったとして、彼が年齢よりも若く見えるからと言って、に何も困るところはない。

 そう思っていた。




「…君って本当に無欲で、今しか見てないんだね。」




 あざ笑うように、イヴァンは言う。




「いや、むしろ人間らしいとでも言うのかな。」




 なんの遠慮もなく笑う彼は、酷く不快で、は気持ちを落ち着けるために深く息を吐いた。

 確かに、不安を見透かされた気がした。

 幸せすぎて、夢のようでたまらなくて、その幸せの中にある不安を、初対面の男に見透かされた気がして、酷く不快だった。

 しかし、が彼と積み重ねた数年が、それごときで揺らぐはずもない。




「それがどうしたというのですか、彼はわたしの夫です。」




 はっきりと、はイヴァンに言い切る。




「失礼なことを言うぐらいでしたら、さっさと帰ってください。わたしを怒らせて外交に関わる前に。」




 何も反論してこないに自分の気が赴くままに笑っていたイヴァンは、笑いを止めてを凝視した。




「…君、案外言うんだね。」




 さも意外そうに彼はそう言った。

 何も言い返さないから、大人しいとでも思っていたのだろう。だがとて不快になれば言い返すし、ギルベルトにも、「おまえ結構言うよな」と言われている。

 ただイヴァンには強い言葉も全く通じなかったようだ。




「でも、それくらいの方がきっと面白いよね。」




 軽く言って、イヴァンはきびすを返す。




「本当に君は、ギルベルト君が勝てると思ってるのかな。」

「…」




 は彼の後ろを向いたままの言葉に黙り込んだ。

 徐々に包囲されつつある、プロイセン。それはもじわじわと分かっていた。フランスがハノーファーを落とせば、プロイセンは北からはロシア、南、東からはオーストリア、西からはフランスに攻められることになる。

 イギリスがプロイセンへの加勢に入る可能性は高いが、陸軍という観点ではやはりフランスが強い。




「どんな姿になっても、帰ってきてくれればわたしは良いのです。」



 は絞り出すような声で呟く。戦争には負けるかも知れない。

 例えそうだったとしても、どうか、戻ってきてほしい。ただそれだけを、は願い続けている。






  Ich hoffe, dass er nach Hause kommt.