「むてぃー、」
アーデルハイトは4月で一歳を迎え、少しずつ話をするようになった。またよちよちと危なっかしくはあるが歩くようにもなっている。は手を広げてだっこをねだる娘を見ながら、目を細める。
ザクセンにいるギルベルトは、もう半年以上可愛い娘に会っていない。軍は常に動くものであり、冬場の駐屯している時期ならまだしも、今は連絡を取ることすらも難しい状態である。
「お母様、クライスト伯爵は年明けに派遣したの?」
「えぇ、」
今年で7歳を超したユリウスが尋ねてくるのに、は頷いた。
ハノーファーの隣にあるフォンデンブロー公国領アイゼンを守るための指揮官として、クライスト将軍を送ったのだ。彼はアーデルハイトの乳母アウグステの父親でもあり、フォンデンブロー公国の古い家系の出身だ。
ハノーファーはイギリスと同君連合であり、隣のフランスに攻められる可能性が高い。フォンデンブロー公国は中立を旨としているが、それでもフランスが強硬に攻めてくる可能性は十分に考えられた。
また秘密裏にイギリスに対して多くの鉄を輸出していることもあり、その記録の抹消の任務も担っていた。
「…ギルベルトに何かしてあげれば良いのですけど、」
はぽつりと呟く。
がギルベルトに連絡を取るのが難しいのに対して、フォンデンブローのヴァッヘン宮殿かアルトルーフェン宮殿のどちらかに常に滞在する達にギルベルトが手紙を送るのはたやすいらしい。
沢山の手紙が送られてきている。
彼は元気なようだ、生きていると言うことだけはわかって、安堵すると同時に会いたいといつも思った。クライスト伯爵はアイゼンへ行くまでの間にプロイセンを通るため、手紙をプロイセン軍に託してほしいと言ってある。おそらく、届くことだろう。
「ゆーり、だー」
アーデルハイトは兄の姿に、次はユリウスに手を伸ばす。
「はいはい。」
ユリウスは仕方ないなと頭をかいてから、小さな妹を抱き上げた。
「ふぁてぃー、」
アーデルハイトは肖像画に手を伸ばす。それは、ギルベルトの肖像画だ。
生まれたばかりだった娘が、父親であるギルベルトの温もりを覚えているとは思えない。だが、それでも父親がわかるようにと肖像画には話しかけるようにしているため、アーデルハイトは肖像画の人物が父親であると理解している。
だが、それも切なくて、は隣に座ってきたユリウスの頭を撫でた。
8歳になり、随分と背が伸びた。今では士官学校に毎日かよっており、授業を受けてみたり、仕官や将校達と話したりと自分で行動をするようになった。いたずらもしなくなり、傅育官達も勉強もしっかりしていると、いつも誉めている。
若い士官や将校とも親しかったが、同時に快活で礼儀をギルベルトから厳しくしつけられたユリウスは年をとった将軍達からも受けが良かった。
「来月、シュベーアト将軍がアガートラームに行くけど、その視察について行くから。」
ユリウスはさらりと言った。シュベーアト将軍は議会の議長でもある。
彼は公務として将軍達について行くようにもなっていた。大人と同じように馬に乗れるユリウスは、公務をこなすには年齢としては早いが、問題なく公務をこなしている。
今回も数年前にアプブラウゼン侯爵領に攻められたアガートラームの復興の式典へと参加するべく、シュベーアト将軍と共に行くことになっていた。から離れての公務は初めてのことである。
また、幼いとは言え公太子であるユリウスは国民からも絶大な人気があり、気さくに村人などにも声をかけるし、答えることから、親しみやすいとの印象を皆が受けていた。
「気をつけていくのですよ。アガートラームはプロイセンとの国境ですけど、同時にオーストリアにも近いのですから。」
「わかってるよ。気をつけるさ。勝手な行動はしない。」
ユリウスは手をひらひらしての注意を受け流した。
徐々に頼りがいの出てきた息子にほっとすると同時に、フランス軍によるハノーファー侵攻の噂はにも放置できるものではなく、また警戒も怠ることが出来なかった。
ハノーファーの主であるイギリスとはも頻繁に連絡を取り合っていた。
雪解けを持って戦争が始まるのがこの時代だが、フランスの用意はまだそれ以上に遅い。だがどちらにしてもハノーファーに侵攻することは間違いないだろう。
今は5月、軍を動かしている気配は十分にあるが、雪が解けてから時間がたっており、かなり遅い動きと言えた。
「困ったものです。」
は書類を見ながらそれを放り出したくなった。
プロイセン軍の動向についての書類は、確かに今プロイセンは勝利しているが、オーストリアの軍の動員状況から行くと、芳しくはなかった。と言うのも、オーストリアは大きな国であり、同盟国も豊かでありながら、プロイセンはそうではないからだ。
確かにフリードリヒ王の軍事的センスは天才的だと言えたが、それで補えるものは、一部でしかなかった。
「厳しいの?」
ユリウスはの手元をのぞき込む。
「これ、」
「良いじゃない。みせてよー」
「でも・・・」
「もう分かる年齢だし、誰にも言わないよ!」
ユリウスの言葉に、は渋々情報の書かれた書類を見せる。
そこにはハノーファーの要塞状況やイギリスの準備、そしてプロイセンの兵力や動向など、ヨーロッパの情勢がすべて書かれていた。
フォンデンブロー公国も当然他国に大使を派遣している。
そこから入ってくる対プロイセン情報をはプロイセン側へと漏らしていた。もちろん秘密裏に、だが。
「結構、やばそ?」
「・・・芳しくはないですね。」
はため息をついて答え、近くの本に挟んである手紙を取り出す。
「アガートラームに行くのでしょう?プロイセン側に、これを渡してきてください。」
「・・・内通者だったらどうするのさ。」
ユリウスが一応警戒を見せる。
「大丈夫、くだらないことしか書かれていないですから。」
「どうせ違うことも書かれているんでしょ?」
「いるけど、絶対にわたしとギルベルト以外には分からない方法を使っているから、大丈夫です。」
は言って、ユリウスに手紙を受け取らせる。
アガートラームであれば、プロイセンに近いためプロイセン側へと渡る商人や、軍隊もいるだろう。傭兵がいれば、この手紙が届けられる可能性も高いし、もしかするとプロイセン軍の将兵がいるかもしれない。
「むってぃ、ふぁーてぃ?」
真剣な顔で話し合う母と兄を見て、父様は?と拙い声音で幼いアーデルハイトが尋ねてくる。
「・・・お元気ですよ。」
きっと、と言う響きは心の中に隠して、はアーデルハイトの額に口づける。
つり目がちの彼女の容姿は、一番ギルベルトに似ている。まっすぐでさらさらの少し固い銀髪を思い出して、は少し目を細めた。
幼い娘に父を尋ねられる度に、胸が締め付けられるような思いがする。
ここにギルベルトがいてくれればどれほどにそれだけで幸せだろうと思う。沢山の宝石も、美しい宮殿も、彼がいないとすぐに色あせてしまう。
寂しいと、が口に出すことは許されない。
なぜならは母親であり、かつてのように勝手の許されたただの少女ではなく、フォンデンブロー女公として国を治めている立場だ。
それでも、今でも変わらず、思っている。
「信じています、から。」
どんな姿になっても良い。
ただ生きて帰ってきてくれるだけで良いと、心から願い続けていた。
Ich hoffe, dass er noch lebt.
彼が生きていることをまだ願っている