ぼろぼろのその服はどうやら、近くにいた農夫に売ってもらったものらしい。
「すごいでしょ。これ。」
ユリウスは自分の着ている服をひらひらさせる。すると砂埃がふわふわと舞った。
においもすごいが砂埃もすごい。
一体何をやっている農夫の服を譲ってもらったのかは知らないが、総じて農民の暮らしというのはこの時代、それ程良いものではない。
「すごいんだよ。ここから手が出てくるんだ。挙げ句の果てほら、虫の卵。」
穴が開いているのか、ユリウスは胸から自分の手をひらひらさせ、茶色の虫の卵をつまんで面白そうに見せた。
「・・・誰もおまえが公太子なんて思わねぇよ。」
ギルベルトは呆れと共に息子の思いきりの良さに感動する。
父親に会うためだとは言え、公太子として育った少年がこのくさくてほこりっぽい服を着て平気なものだろうか、と少し育て方を間違った気もした。
「俺も躊躇ったんですけど・・・」
クラウスは青色の瞳でおもしろがっている自分の主を見て、はーとため息をつく。
彼としては着たくなかったらしいが、主君であるユリウスがあっさりとこの服を着た限りは、クラウスも着ないわけにはいかなかっただろう。
忠誠心で嫌悪感を超えたと言うことか。
「おまえの思い切りの良さと手段を選ばない所には脱帽だな。」
フリードリヒもここまでの徹底ぶりは考えなかったらしく、息を吐いた。軍隊には物売りやら商人やらが普通に出入りするものなので、誰も物売りの少年と疑わなかったことだろう。
普通の貴族にはなかなか嫌悪感から出来ない。
「ただ、一つ言うなら、おまえの手は綺麗すぎるがな。」
フリードリヒは小さく息を吐く。
痛んでいない、綺麗な白い手。それを持つ階級がこの時代どれほどのものなのか、フリードリヒはよく知っている。そう、ユリウスの手は綺麗すぎる。
「でもとうさまにあいたかったから。」
ユリウスは無邪気な笑顔を浮かべる。
一年も会わなければ少し表情は大人びたが、笑顔はちっとも変わっていない。本当なら危ないところに来るんじゃないと怒りたいところだったが、ギルベルトの頬も勝手に緩む。
「これは母様から。」
ユリウスはごそごそと穴だらけのポシェットの中から、ギルベルトに手紙を渡す。
そのあたりにあったペーパーナイフで手早く開けるとそれは普通の手紙に見えたが、所々が暗号になっており、現在のオーストリアやロシア、フランスの現状などが事細かに書かれていた。
もしもこの手紙が他国に渡った時のことを考えて暗号化されているそれのキーワードはとギルベルトしか知らない建物や思い出の場所が基軸となっていた。
「・・・おまえ、これを直接渡すためにこんなとこまで来たのかよ。」
父親に会いたかったというのはわかるが、それでもこれを直接渡すために来るなど、狂気の沙汰だ。ギルベルトは息子にため息をついたが、息子は子供っぽく頬を膨らませて見せた。
「何さ、何さ、そんなこと言っていいの?ぼくはお父様にビックプレゼントを渡すために来たんだよ。」
そう言ってギルベルトの手を無理矢理に取る。
「はい。」
手に置かれたのは金の装飾のある、少し大きめの十字架のロケットだった。
「今更なんだこれ。」
高価と一目で分かるが、こんな贈り物など今更だ。
「ぼくからのプレゼント。とうさまのヴィクトリアだよ。」
ユリウスはむっとした顔で言って、ギルベルトの持っているロケットの小さなふたを開ける。十字架の中央には絵がはめ込まれており、そこには幼子とおぼしき少女の肖像画が描かれていた。
銀色のまっすぐの髪に、きりりとした緋色の瞳。白い頬と整った顔立ちは幼いせいか少し丸い。頬は柔らかに色づき、まだ体つきも全体的に丸い。
立ち上がり、椅子に手をかけてポーズをとる白い服の幼子。
「とうさまはぼくとかあさまの肖像画を持っているけど、アーディのは持っていないでしょう?」
戦いが始まるたった数ヶ月前に生まれた、娘のアーデルハイト・ヴィクトリア。
生まれて間もない上、過ごす時間が余りに少なすぎて、ギルベルトは彼女の肖像画を作ることすらも叶わなかった。だから、一年近く会っていない娘の姿は未だ赤子のままだ。
このように椅子に手をかけ、立ち上がる姿をギルベルトが直接見たことは、ない。
「アーディは元気だよ。最近は自分で立つようになってきたんだ。」
ユリウスはギルベルトの驚きを満足げに笑って、指で肖像画を示す。
「そうか、大きくなっているんだろうな。」
もうそろそろ言葉や状況も分かる年齢になってくる。ユリウスもそうだった。
子供の成長は驚くほどに早く、もうユリウスが生まれてからも8年の月日がたったのだ。そして同じように娘のアーデルハイトも恐るべき速度で成長していく。
「元気か?」
「もちろん。アーディはすごく元気だよ。皆が驚くくらい何もないよ。」
「おまえもだぜ。」
「見ての通りさ。ぼろぼろ!でも元気!」
穴の開いた袖の所から手をひらひらさせて、ユリウスは笑って見せる。
この時代子供が病にかかり、なくなることも多い。沢山子供を産んでも、半分くらい亡くなるなんてことも珍しくない。
だが、ギルベルトの血のおかげなのか、ユリウスは驚くほど病気のしない子供であった。アーデルハイトも同じらしく幸いなことに風邪なども少ないらしい。
「コリンの戦いでは負けたって、報告を受けたよ。」
ユリウスは真剣な顔で、ギルベルトに言う。
「・・・聞いたのか。」
「聞いたよ。」
彼は子供の割には非常に良くものを把握しているから、当然のことだろう。旅の途中にフォンデンブロー側の将校から聞いたのだ。
「ハノーファーが占領されつつあることも、聞いてる。」
「・・・」
「これから難しい状況になるのも、ちょっとはわかってるよ。ぼくらだって、たぶんあぶないよね。」
フォンデンブロー公国はオーストリア、プロイセンという大国2つに接する難しい立地にある。
特に飛び地アイゼンの隣にあったイギリス領ハノーファーはフランスに占領されつつある。
おそらく、フォンデンブローがイギリスに手助けできるのも、プロイセンに手助けできるのも、立場を考えれば出来ないだろう。
下手に動けば豊かなフォンデンブローも、潰される。
「僕の目でも、外交交渉が激化しているのは分かるしね。」
ユリウスは小さく息を吐く。
最近ユリウスは頻繁に士官学校に行き来している。戦争が始まる各国の士官学校に行っていたフォンデンブロー公国貴族の師弟達は、一斉にフォンデンブロー公国に帰国した。
それに伴い宮廷は華やかさを増したが、同時にいろいろな情報がユリウスの耳にも入ってくることとなった。
この間も母であるの所にオーストリア、ロシア、ハンガリーの特使がやってきて、金の無心に来ていた。
そういう風に、フォンデンブローとて戦場でなくとも無関係とはいかないのだ。
「でも、ぼくらはお父様をまってるから、お父様も負けないでね。」
ぼくらも、まけないから、とユリウスはギルベルトに似た緋色の瞳をまっすぐと向けた。
どんな姿をしていても、その瞳の強さと高貴な色合いは変わらない。ドイツ語でアーデルAdelと言う言葉は、貴族を表すと共に、高貴という言葉も示す。
上に立つものとして育てられた彼は、幼いけれど既に自覚を持って、しっかりとした意志を持つ。それは国を守る意志だ。
「わかってる。おまえに負けてられないからな。」
ギルベルトはそっと息子の肩を抱く。
彼は貴族として育ってきた、自分は下から這い上がってきた存在だ。息子が出来ることで、自分に出来ないことなんてない。
「俺もおまえを見習うべきかもな。」
苦笑して、息子を抱きしめればやっぱり嫌なにおいがした。
父親に会うためならこんなことをするのは簡単だとでも言うのなら、ギルベルトだって同じように、彼のために泥にまみれられるはずだと思った。
Ich bin vermutlich nicht bitter als er.
俺は彼より辛くはない