8月のはじめにはハノーファー選帝侯国のフランスに対する抵抗も終わりを迎えた。
ヨーロッパ大陸唯一のイギリス領であるハノーファー王国は、こうして短いフランスの支配を迎えることとなる。
9月の収穫祭も終わる頃、オーストリア大使であるローデリヒやハンガリーのエリーザベト、そしてオーストリアから訪れたはた迷惑な賓客が夏の宮殿であるアルトルーフェン宮殿に訪れていた。
涼しい気候のノイエルーフェンは代々の公太子の住居であるアルトルーフェン宮殿があり、同時にフォンデンブロー公一家の夏の避暑地である。だがの体調が優れず、9月の収穫祭が終わってもはアルトルーフェン宮殿に滞在していた。
今の公太子であるの息子・ユリウスはシュベーアト議長の視察について銀山の街アガートラームの方へと出かけていたが、すでに戻ってきており、会談に同席していた。
「騒々しいこと。」
ノイエルーフェンに避暑に来ているの宮殿までやってきた大使たちに、は不快感を隠す気にはなれなかった。
大挙して訪れた大使に、会談に同席することになった幼いユリウスも流石に渋い顔だ。
基本的に軍事以外に関して、フォンデンブロー公爵は議会の決定に従う。
金の無心は議会のある首都のヴァッヘンでやってくれと言うのが、の意見だったが、彼らは一応議会からの議案の拒否権を持つを頼ってきたんだろう。
「ユリウス公子は随分と大きくなられているのですね。」
そう言ったのは、お忍びで訪れたマリア・テレジアだ。は扇で口元を隠したまま不快感に眉を寄せた。
が会談を断れなかった理由が、彼女だった。
鮮やかなふっくらしたいかにも皇女として育ち、女帝となった彼女は類い希なるカリスマ性を持ち、なんと援助をしないフォンデンブロー公国まで直接乗り込んできたのだ。
同じ形でハンガリーに乗り込み、援助を勝ち取ったと聞いている。
「えぇ、もうすぐ9歳になりますから。」
は隣に座るユリウスの肩を優しく抱き寄せる。
ユリウスの感情は当然だ。なぜなら父親の敵である。
「優秀な公太子だとお聞き及んでいます。ラテン語などにも堪能だとか。」
マリア・テレジアは穏やかに微笑んで、ユリウスを見る。
「娘さんも生まれたとか、」
「えぇ,アーデルハイトもユリウスと同じくとても元気です。」
はギルベルトがいなくなってから、子供達と過ごす時間を増やすようにした。
もともと議会権限の強いフォンデンブロー公国は、軍事権限以外、が決めるところは少ない。出産後だったこともあり、書類の確認程度にして謁見や議会の臨席も極力抑えられた。
子供達との時間は、ギルベルトがいないとはいえ心が安らぐ。
ユリウスの勉強はもちろん家庭教師も多いが、予習復習に関してはが見ることが多くなった。
「是非一度公太子殿下にシェーンブルン宮殿に来ていただきたいものだわ。」
マリア・テレジアが言うと、ユリウスは拒みはしなかったが、子供だけあってマリア・テレジアに対していかにも嫌そうな顔をして見せた。
はあまりにも素直な息子の頬を諫めるようにふにっと押す。
この時代、大貴族であっても別の国の宮廷で育つことは珍しいことではない。そのためユリウスは大方父の祖国であるベルリンのプロイセン宮廷と母の祖国であるフォンデンブロー公国の宮廷とを行き来する形で育ってきた。
家庭教師で育っても問題はないのだが、本人は士官学校の視察などをしていたため、士官学校に行きたいようだ。適齢期になれば考えなければならないことだ。
「きっとご子息にとっても良いチャンスになると思うの。」
マリア・テレジアはを伺うように見る。
他国の公太子を招くことは別に珍しいことではないが、今の状況ならば人質に等しい。そっとはユリウスの肩を抱く。
そして、まったく彼女の話を無視した。
「議会との話し合いは、いかがでした?」
はちらりとマリア・テレジアを見ると彼女はぐっと唇を噛む。
「芳しくは、ありませんでしたわ。」
基本的に政治は議会権限であるフォンデンブロー公国なので、マリア・テレジアは最初にフォンデンブロー議会で演説をし協力を得ようとした。
だが、当然十数年前跡取りであったカール公子を見捨てたオーストリアへの恨みを忘れていないフォンデンブロー公国が、オーストリアに手を貸すはずもない。
議会ではののしりの声すら上がったと聞いている。
議長であり、軍人でもあるシュベーアト将軍は「茶番劇だ」と一言で切り捨て、ユリウスのお気に入りであるクラウスの父であるシェンク議員は「同情では誰も帰ってこぬ。」と吐き捨てていた。
特に銀山の街アガートラーム出身のシェンク議員はオーストリアに援助されたアプブラウゼン侯爵の侵攻を忘れていない。
「そうですか、議会の議決はフォンデンブローでは神のお与えになる法に等しいですから。」
は静かな声音で言って、紫色の瞳を彼女へと向ける。
オーストリア自体には自身も行ったことがあるし、特別嫌ったこともないが、今はギルベルトの明確な敵であり、議会の結論を覆してまで彼女を助けるだけの気力はにはなかった。
「ではどうしたら援助がもらえるのかしら。」
マリア・テレジアの目は全く諦めない。
「用意出来るのなら、なんでもするわ。」
「・・・」
は彼女の強すぎる青い瞳を見返す。
「・・・貴方は、さぞ恵まれた女性なのでしょうね。」
彼女は他人が望むものを与える力が自分にあると、信じて疑っていない。確かに、彼女は皇女として育ち、女帝となり、権力の中枢にいる人物だ。常にそうだったのだろう。
はマリア・テレジアを見て、小さく息を吐く。
彼女は知っているだろうか。すべてから嫌われ、泣くことしか出来ない程打ちのめされ、それでもたった一人の父親からの愛情を一つの希望のように願い続けた、願い続けることしか出来なかった、孤独感や絶望を。
自分に経済的に、そして将来的な援助を与えてくれていた人を失う悲しみが。
「私は今のまま、望むものなんてありません。」
息子が傍にいて、娘がいて、経済的にも恵まれていて、民が慕ってくれて。
何が、にとって不満なのだろう?
ギルベルトに早く帰ってきてほしいと思う。とても寂しい。子供達のためにも、自分のためにも、帰ってきてほしい。本当に恋しい。
でも、それはあの頃の絶望を思い出せば、酷い我が儘だ。
「私が望んでいるのは、家族の幸せのみです。また、国には統治者として責任はありますから、なおさら、国民の意思に反することはいたしません。」
が返す答えは、今も昔も変わらない。
自分の家族を大切に思い、国を大切に思っている。そして、夫であるギルベルトが帰ってくることを心から望んでいる。待ち続けている。
「もしも私から、家族を取り上げるのならば、私は誰にであっても牙をむくでしょう。」
はユリウスを腕に抱いたまま、マリア・テレジアを見据える。
それで、マリア・テレジアは気づいたのだろう。
先ほどユリウスを招く言動をしたことが、の警戒心を煽ったと言うことに。ちらりと控えている侍従達を見れば、同じように敵意のある目をマリア・テレジアに向けていた。
マリア・テレジアは思い出す。
『我らが公子を奪ったくせに!!』
フォンデンブロー公国の議会で演説したマリア・テレジアに向けられたのは、まごう事なき敵意と憎悪だった。
確かにオーストリア継承戦争の時、フォンデンブロー公太子カール・ヴィルヘルムを奪ったのは、プロイセンだ。だが、援軍を送ってくることなく、フォンデンブロー公国を見殺しにしたのはオーストリアだ。
オーストリアが援軍を送らないことをもっと早く言っていれば、フォンデンブロー公国は中立を保ち、戦場となることもなかっただろう。
都合の良いことだけを言って、また見捨てるのだ。
フォンデンブロー公国の議会はこれ以上ないほどマリア・テレジアに冷ややかだった。どれほど言葉を尽くしても埋められる差ではない。
冷たい憎悪がマリア・テレジアに常向けられていた。
フォンデンブロー女公であるの瞳は違ったけれど、その瞳もまた、かつての悲しみに向けられていた。
Wir dauern zu schreien.
私達は泣き続けている