が母に連れられて初めてアプブラウゼンを出たのは3歳になってすぐの頃だった。





『おいで、、』 





 手を引かれて連れて行かれたのはさまざまな場所だった。ほとんどは母の親戚であるフォンデンブロー公国
だった。の父であるアプブランゼン侯爵から逃げるように、彼女はさまざまな場所を転々としたし、アプ
ブラウゼン侯爵領にとどまることはほとんどなかった。父は母を愛していたが、を強烈に嫌っていた。た
だ嫌われることは悲しかったが、はその由縁をまだ知らなかった。

 母が最後にたどり着いたのは、イングランドの地だった。少しアプブラウゼンに帰った後、唐突に母は
を連れ出してイングランドへと渡った。





のために、きちんと話し合いをした方がよいのではないのか。』






 父であるアプブラウゼン侯爵に頼まれたのか、フォンデンブローの跡取りだったカール公子が母を連れ戻し
に来たのは、イングランドに来てしばらくたった頃だった。母はカトリックで、形式上は離婚は許されない。


 母はカール公子の説得にあいまいに微笑むだけだった。

 がカール公子とふたりで庭でバラを摘んでいたとき、3階の窓から何かがふっと飛んだ。長い亜麻色の
髪が散っていて、それはすぐに緋色に摩り替わった。甲高い悲鳴と、独特の血の香り。は持っていたバ
ラを落とした。バラは緋色の花びらを散らして地面に落ちる。

 後から知った。母は妊娠していた。それはおそらくアプブラウゼン侯爵の子供だったが、彼女は出産を望ま
なかった。母は心から父のことを嫌っていたのだ。ならばどうしては生まれてきたのか。



 答えは簡単、アプブラウゼン侯爵の子供ではなかったからだ。

 の実父は、イングランドの大貴族の子息だったという。母を愛していたアプブラウゼン侯爵はただ、醜
聞となるの存在を隠すために、自分の子供として認知したのだ。アプブラウゼン侯爵を父だと思ってい
にとっては胸をえぐられるような感覚だったが、同時に納得もできたし、申し訳なく思った。





、おまえフォンデンブローに来い。』





 カール公子は、母をイングランドの地で葬ると、を連れてフォンデンブローへと帰った。アプブラウゼ
ンにの居場所がないことは、もう明白だった。

 の唯一の帰る場所だった母は、失われたのだ。

 何の資本も持たぬ子供であるが頼れるのは差し出されたカール公子の不確かだが温かい手だけ
だった。



 それすらも、赤に奪われてしまったのだけれど。









 はぼんやりとした天井を見上げる。真新しい壁紙の部屋は、ギルベルトに与えられたわけだが、今
にとっては唯一の居場所である部屋だ。

 ベッドの上に仰向けになって天井をしばらくにらんでから、ごろりと横に転がって目元をこする。いつのまに
か目じりには涙がたまっていた。嫌な、というよりは悲しい昔の夢を見たからだろう。落ち着くために体を
起こしてベッドサイドに置いてあった水差しに手を伸ばす。

 上着を羽織ってベッドの隣に置いてある椅子に座る。臙脂の柔らかな背もたれの椅子は質もよいし、女性ら
しい彫刻なども彫られている。



 ギルベルトはに惜しみなく与えてくれる。



 母とカール公子の死とともにがなくしてしまった居場所も、地位も、身分も、全部。

 彼は粗暴なところはあるけれど本質的には優しく、それに聡い。が言わなくても多くのことを気づいて
手を打ってくれる。





「申し訳、ないくらい、」





 は何も与えてあげられないのに。

 ギブ・アンド・テイクとよく言うけれど、明らかにには与えてあげられるものがなくて、してもらってばかり
だ。父の所業からも守ってもらって、屋敷の中で外界から隔離してもらって。

 は水差しにあった水をコップに入れる。ぽちゃぱちゃと水音がなってコップの中に水は吸い込まれてい
った。





「起きてんのか?」





 少しトーンを落としたギルベルトの声が扉の向こうから聞こえる。

 ちらりと目を向けると彼の部屋からは光が漏れていた。柱時計を確認すると12時過ぎだったが、は早寝
だが彼は帰るのが遅い時もある。今日はが起きている時には帰ってきていなかったので、今頃帰ってきた
のかもしれない。





「はい、起きてます。」






 答えて、ゆっくりと隣の部屋へと続く扉を開ける。ギルベルトの部屋の中はろうそくで照らされていての部屋
よりもずっと明るくかった。

 少しまぶしくて、は菫色の瞳を細める。





「珍しいな、こんな時間まで起きてるなんて、」





 友人と酒でも飲んできたのか、ギルベルトの顔はわずかに赤みを帯びていた。





「はい、途中で起きてしまって。」






 は少し目を伏せて言う。

 ギルベルトはふぅんと気のない返事をしてから、近くにあったブルストをかじった。どうやらメイドに頼ん
で作らせたらしい。その隣にはまだビールがあった。





「結構、飲まれるんですか?」

「もちろん。」





 ギルベルトは大人だから当然なのかもしれないが、はあまり飲んだことがない。そもそも母と一緒にい
たため男性と触れ合うのは本当にフォンデンブローに滞在したときのカール公子ぐらいのもので、常に母と一
緒にいた。だからあまりお酒だったりそういった知識はにはない。それにカール公子はワインは好きだっ
たが、ビールはそれほど飲んでいるのを見たことがなかった。それにワインといっても食事のときに少し程度
だ。酒盛りといわれるほどではない。





「おいしいですか?」





 はうつむきがちにたずねると、飲んでみるかと差し出された。





「これはバイエルンからのラガーだけどな。」





 ギルベルトは黄色いビールをに渡す。

 は泡をじっと見ていたが、意を決して飲んでみることにした。口に含めば独特の風味と苦味が口いっぱ
いに広がる。なんだか少ししゅわしゅわした。





「うぅ、」





 口を押さえて何とか飲み込むと、咳き込んでしまった。ギルベルトは笑いながらの背中をなでる。




「感想は?」

「う、えっと、ぁ、にがい、です。」





 は素直に答えて、ギルベルトの机の上にあった水差しの水を口直しに飲んだ。彼はどうしてそんなに大
きなサイズでこの苦い液体を飲めるのだろう。少し不思議になる。





「こっちはエールだから飲めると思うけどな。」





 ギルベルトが別のコップを持ってくる。そこに入っているのは先ほどのよりも見た目色が濃かったが、同じ
ビールのようでは眉を寄せた。





「ビール・・・ですか?」

「あぁ、種類が違う。お前にはこっちの方がお似合いだろ。」





 そういってギルベルトはにそのコップを押し付けた。

 はもらったが、先ほどの味を思い出して乗り気ではない。だがギルベルトを見上げれば完全に目が飲め
といっていては意を決して口に含んだ。予想に反して案外口当たりがやわらかく、苦味がない。香りも甘
い。





「・・・・おいしい、ですね。」





 はしばらく舌の上で味わってからそうこぼした。





「だろ?」





 やっぱりとギルベルトが笑って先ほどが飲めなかったビールを仰ぐ。





「こっちに座って飲めよ。たまには俺の酒盛りに付き合え。」





 椅子を示されて、は「はい、」と返事をしてコップを持ったまま座った。

 本当においしい。甘くてのみやすいビールを少しずつ飲みながら、はギルベルトを見上げた。ギルベル
トはつまみにブルストを食べている。

 そういえば彼はこれから少しの間軍隊が休みになるといっていた、麦だったりの刈り入れ時が夏を過ぎれば
始まるので、軍隊に配備されている農民兵が農地に帰ってしまうのだ。だから今日も遅くまで酒盛りをしてい
るのだろう。


 部屋の温度は夏盛りのせいもあって少し暑いくらいだ。




 遠く聞こえる虫の声を聞きながら、は甘いビールに舌鼓を打った。














 
それだけが それだけが