馬車に荷物が運び込まれ、侍従や将校、女官など沢山の人々が行き交う。
フォンデンブロー公国では公爵の力は他の国ほど強くはないが、それでも女公が出かけるとなればそれはある意味で一大事業のようなもので、家族全員ともなればなおさらだ。
「むっていー、びって!」
アーデルハイトは毛皮のついた上着も着ずにやってきて、旅行服姿のに手を伸ばす。
「もう、上着も着ないで。」
は娘を抱き上げて、少し冷たくなった娘の躯を温めるように自分のケープの中に寄せた。
11月にもなれば冷えるものだ。
まだアーデルハイトは2歳になっていないため、気をつけるに越したことはない。ただ幼いながらこの娘は非常に活発で、乳母をまくのが上手だった。
「申し訳ありません!」
アーデルハイトの乳母のアウグステが綺麗な赤毛を振り乱し、真っ黒にくすませてやってきた。
「あらあら、髪がすごいことになっておりますよ。煤ですか?大丈夫ですか?」
「すいません。また、暖炉の中かと。」
「今日は違ったみたいですが、ご苦労様です。ドレスを着替えていらっしゃい。あと少しで出る予定ですから。」
「ありがとうございます。」
アウグステは深々と頭を下げて、走っていく。
貴族としては走ったり、暖炉に頭を突っ込んだりといったことはあり得ない話だが、そのくらい逞しくないと、アーデルハイトの乳母はつとまりそうにないので、は細かいことを突っ込まないことにしている。
実際に先日アーデルハイトは火の入っていない暖炉の中に入り込んで煤で真っ黒になったのだ。
「あれ、戻ってこれますかね。」
心配そうな顔で女官のエミーリエが呟く。
「どうでしょう。ドレスを着るのは時間がかかりますからね。まぁ、そうなれば申し訳ありませんが、遅らすということにしましょうか。」
は集まっている侍従達を見る。
彼らは既に20分ほど前から皆集まっており、女官達も同じだ。
なのに、まだ息子のユリウスはここにはいない。女公一家が一番後なのは身分上当然のことだが、は既にここにいる。アーデルハイトは先ほどまで乳母のアウグステをまいて遊んでいたため、今来たばかりだ。
今、ユリウスの乳母のルイーゼと、侍従のクラウスがユリウスを探しているところである。
「用意も終わっていないとか言う噂ですけど。」
エミーリエはおずおずとに言う。
「終わってないんですか?・・・もう、あの子は本当に・・・。」
は軽く息を吐いて、表情を歪める。
ベンラス宮殿に行くことなど一週間前から決まっていたというのに、ぎりぎりになるなどもってのほかだ。ましてや昨日まで遊びほうけていたのだから。
「Kommt Juli noch?」
ユーリはまだ来ないの?とアーデルハイトが拙い言葉で首を傾げた。
「Noch、まだですわ。ご用意が終わっていないんですって。」
はこつんとアーデルハイトの額に自分のそれを合わせて、困った顔をする。
「待ってくださっている将校や侍従、女官達の前で後で謝ってもらいましょうね。」
「様!」
エミーリエは公太子に謝らせるというに驚きの声を上げる。
身分の高い公太子が、年上とは言え将校や侍従、女官の前で謝るなど考えられなかったのだろう。絶対王政が昨今のはやりであるからなおさらだ。
「当たり前です。これだけの方に待っていただき、迷惑をかけているのですから、それを理解せねばなりません。謝るのが嫌なら次からはきちんと用意をしてくることです。」
確かにユリウスはこれから公爵になり、上に立つ人間となるのだろう。
だが、だからといって自分勝手が許されるわけではない。下のものはなかなか自分たちにものをはっきり言うことが出来ないだろうが、それも理解しなければならない。
「エミーリエ、まだ時間がありそうでしたら、アーデルハイトの上着を持ってきてくださいますか?」
エミーリエに命じれば、「はい。少しお待ちください。」と小走りでヴァッヘン宮殿へとかけていった。
これから馬車に乗るが長旅になる、アーデルハイトも上着があった方が良いだろう。
「用意の方は、どうですか?」
は今回この旅行の責任者となっているアルフレート・フォン・シェンクに声をかける。彼はベンラス宮殿近くの銀山の街・アガートラームの出身であり、議会の議員である。また、の息子ユリウスの側近であるクラウスの父でもあった。
クラウスはユリウスよりも6つほど年上だが、お気に入りだ。
「はい。用意は滞りなく。」
緊張した面持ちでアルフレートは答えた。
初めての重役に緊張しているのだろう。はアーデルハイトを抱え直して、アルフレートに笑った。
「あまり小さなことは気にしなくても大丈夫ですわ。街や村々で手に入るものですし。」
「いえ、快適にお過ごしいただけることが、一番ですから。」
真面目なアルフレートは神妙な面持ちで答えて、に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。本当に。」
は礼を言って彼の働きをねぎらった。
アルフレートとたわいもない話をしているところに、慌てた様子のユリウスがぱたぱたと走ってきた。
「ユリウス、」
「Tut mir Leid。Ich verspate mich 。」
ごめーん。遅れた−。と言うあっさりとした口調に、は眉を寄せると同時にギルベルトがここにいてくれないことを残念に思った。
彼なら間違いなく、げんこつ一発くらいユリウスにくれてやったことだろう。
「遅れたではありません。何をクラウスに荷物を持たせているのですか?手伝っていらっしゃい。」
後ろからクラウスとルイーゼが侍従が出払っていて運んでもらえなかったユリウスの荷物を運んでいる。
その哀れな様子に息子を叱りつけて、は大きなため息をついた。
「はーい。」
不満そうなユリウスは渋々といった様子でクラウスの持っていた荷物を一つ抱えた。
ギルベルトが戦争に行ってから、しっかりしたユリウスだが、それでもまだ子供そのもので、我が儘は少ないが、自分勝手は多い。
是正していたギルベルトがいないからなおさらだろう。
特に侍従のクラウスと乳母のルイーゼは振り回されっぱなしだ。それでも文句を言わずに彼らはついて行くのだから、本当にの方が頭の上がらない思いだった。
「むってぃー、Juli hat viele Gepacks.」
ユーリの荷物は多いよと、娘が訴える。
遅いくせに沢山持ってくるとはどういうことなのだと頭痛がしたが、それを言っていては話が進まないので、は黙り込んだ。
「様、アーデルハイト様の上着です。」
エミーリエは少し小走りでやってきて、の腕に抱かれたアーデルハイトに小さな毛皮の上着を着せる。
毛皮の上着を着るにはまだ早いような気もしたが、風邪を引くことを考えれば良いだろう。
「さて、ユリウス。」
は荷物を馬車に運び込んだユリウスを人々の前へと引っ張り出す。
「出発時間は既にとうに過ぎております。侍従や将校の方々にもご迷惑をかけました。言わなければならないことは分かっていますね。」
「え。」
ユリウスは呆然とした面持ちで母を見上げる。
珍しく眉をつり上げた柔らかな面立ちの母が、少し困ったような顔でユリウスを睨んでいた。
「・・・tut mir Leid」
ごめんなさい、とドイツ語で小さく今回の責任者であるアルフレートや、乳母のルイーゼ、侍従のクラウス、女官達にも聞こえるように言うと、皆は小さく笑って、ユリウスに頭を下げた。
ich bin verwirt
Liebes Kind, Geliebt Kind