風光明媚で知られるノイエルーフェンにある、アルトルーフェン宮殿にて政務を執ることにした。首都のヴァッヘンは防衛上の問題もある。昔から公太子が居住していたアルトルーフェン宮殿の近くには要塞があり防衛上便利だからだ。

 それは刻一刻と悪化する戦争に対する対策でもあった。




「ふぅ、」




 は各国から次々とやってくる借金の申し込みに辟易しながらも、彼が無事であることを祈るしかない。




「・・・昔と、何も変わっていない。」




 10も年上だった、結婚する予定だったカール・ヴィルヘルム公子の無事を祈りながらも、オーストリア継承戦争の時はただ待ち続けることしかできなかった。まだ10歳そこそこだったには祈ること以外にできることはなく、涙ながらに見送ることしかできなかった。

 戦死してしまった彼にかわりフォンデンブロー公国の統治者となった今でも、ただ祈りながら夫の帰りを待つ自分は何も変わっていないのだと思い知らされる。

 子供たちがともにいれば気分も紛れるが、一人になると考えるのはギルベルトのことばかりだ。




様、アルトシュタイン元帥がお越しです。」




 今となってはの腹心の部下であり、議会の議員でもあるアルフレート・フォン・シェンクが、外からを呼ぶ。




「あぁ、もうそんな時間ですか、」




 物思いにふけっていて、時間を忘れていたらしい。が顔を上げて時計を見てから入室を侍従たちに促すと、彼は少し安堵したような表情をして、ひげを生やした老人を連れてきた。




「お久しぶりですね、」




 は目を細めて、彼を見やる。




「お久しぶりでございます。様。」




 穏やかな緑色の瞳をしたアルトシュタインは、に孫を見るような優しいまなざしを向けた。




「ご立派になられましたな。」

「そうでしょうか?」




 彼が退官してから、アルトシュタインに会う時は普段着であったため、こうして君主として彼に面会するのは久しぶりかもしれない。は小さく笑って彼に席を勧めた。

 彼は、に息子のユリウスが生まれてからすぐに退官した。もう年も年だったし、をかばって大けがをしたこともあったから、辞任したいというアルトシュタインをが引き留めることはなく、市民で初めての元帥の地位と、貴族としての称号、領地を与えて彼の功をねぎらい、穏やかに余生を過ごしてくれることを願った。

 状況が変わったのは、日に日に戦争が激化しているからだ。

 現在の軍隊の総司令官であるシュベーアト将軍は議会の議長も兼ねており、統治者のが女であることもあり、軍事に人が足りず、結果的にもう老齢で、英雄としてたたえられているアルトシュタインを呼び戻すことになってしまったのだ。

 もちろん、まだオーストリアやフランスに攻め込まれたわけではないが、その可能性は十分にある。

 直接的に争いに巻き込まれていないフォンデンブロー公国にも、備えは必要だった。




「申し訳ありません。貴方を呼び戻すことになってしまうとは、」




 は小さく息を吐いて、こめかみを押さえる。だがアルトシュタインはいつもと同じように穏やかにをなだめた。




「主である貴方のお役に立てるならば、私にそれ以上のことはございません。」




 が女であり、軍事的なことに疎いのは彼もよくわかっていることだ。主に望まれる限りはいつでもはせ参じる彼の態度は、を支える。




「すいません。今はギルベルトもいないから、」




 が弱気になって言うのに、彼は何も言わなかった。

 アルトシュタインはが気弱であることも、あまり君主という地位を歓迎していなかったことも承知している。

 即位してから、は非常に良い君主として有名だ。議会と争うことはほとんどせず、税金の無駄遣いもなく、たまに軍事権限を行使するだけの君主を、独立心の強いフォンデンブロー公国は歓迎した。

 は女であるため強い軍人としての権限を直接的に行使することはほとんどない。代わりに軍事で有名なプロイセンの将軍である大貴族と結婚し、それを補ったが、結婚相手であるギルベルトもまた最大限、フォンデンブロー側の将軍への配慮を見せた。

 名君とまで言わずとも、はフォンデンブロー公国にとって過不足ない統治者であり、時々国民に災害があると慰安金を出すと言ったことは惜しまない。だからこそ、を国民も将軍たちも好んでいた。




「あまり思い詰めてはなりませんよ。バイルシュミット将軍もきっと悲しそうな顔をなさるでしょう。」

「・・・そうですね。心配してしまいそうです。ただ、私が心配で死んでしまいそうなだけなんです。」




 はかつて、婚約者になる予定だったカール・ヴィルヘルム公子を戦いの中になくしている。だからこそ、ギルベルトを戦の中でまたなくすかもしれないという恐怖は、常ににつきまとっていた。




「大丈夫です。あの方はきっと様の元に戻ってこられますよ。」




 アルトシュタインはを元気づけるように、そっと手を握った。皺だらけの手は、ごつごつしていて硬いが、暖かい。父親のようなぬくもりには少しだけ慰められるような気がした。




「母様、いる?」





 少し沈んだ顔をしていたは、息子の声音に顔を上げる。




「あ、はい。どうぞ。」

「あー、アルターバルトが来てる!」




 扉を開けて入ってきたユリウスは嬉しそうにアルトシュタインを見ると目を輝かせた。





「これはこれは、大きくなられましたな。」




 アルトシュタインは立ち上がり、公太子に頭を下げる。




「うん。アルトシュタインは変わってないね。相変わらず白いお髭がすてきだよ。」

「ユリウス、口を慎みなさい。」





 一応ここは侍従も控える公式の場だ。親しいアルトシュタイン相手とはいえ、彼はフォンデンブロー公告の元帥である。呼び捨てはあまり良くないとは息子を注意したが、彼は別に答えている様子もなく、嬉しそうに笑っているだけだ。



「いえいえ、よろしいですよ。士官学校でもユリウス公子の話題で持ちきりでしたからな。」




 アルトシュタイン元帥はしわだらけの目元をますますしわだらけにして笑う。



「えーどんな話題だったの?もしかして悪口とか?気になるなぁー。」

「まさか、大人気でしたぞ。」




 先日、久々にアルトシュタインが士官学校を訪れた時、迎えたのは若い将校や下士官だった。彼らは一様に士官学校によくやってくるユリウスのことを話していた。

 まだ10歳になっていない公太子は、才能豊かなことで有名だ。

 すでに数カ国語を操り、馬に乗り、狩猟もうまく、ピアノなどの芸術にも明るい。それだけでなく、銃の扱いや大砲にも興味を持ち、特に身分が低いとされる砲兵隊に好んで話を聞きに行っていた。

 どうしても貴族が所属することの多い騎兵隊が優遇されるため、新しく出来た舞台である砲兵隊はあまり注目されることがなかった。ましてや尉官クラスの下士官への待遇はもっとひどい。

 だが、ユリウスがよく遊びに行くようになってから、彼らは直接公太子にものを言う権利を得ると同時に、忠誠心も芽生えたようだ。また、あまりにひどい待遇の場合は、ユリウスがあっさりと変えた。

 それは公太子であるユリウスには別に難しいことではなかったからだ。




「良かった。彼らは僕の友達だからね。」





 ユリウスはにこにこと笑って、が座るソファーの隣にぴょんっと飛び乗った。




「シュベーアト議長とも話し合いまして、アルトルーフェン宮殿の警備をシュベーアト議長が、国境付近の警備を私が請け負うことになりました。」




 アルトシュタインはもう一度席について、真剣で低い声音でそう言った。

 国境警備は決して簡単ではない。数キロ先ではプロイセンやフランス、オーストリアが争っているのだ。もしも敵が越境した場合は一番に交戦することになる、厳しい場所だ。それでもアルトシュタインの目は老人とは思えないほど力があり、毅然としていた。




「命に代えても、必ず様と、ユリウス公太子をお守りいたします。私などよりも、御身と公太子が一番です」




 その声音には強い決心の色がある。 掠れた最後に、は目を伏せた。

 彼もまた、忘れられないのだ。なくなったカール・ヴィルヘルム公子を。だからこそ、その後悔を繰り返さないようになくさぬよう、必死に守ろうとしている。




「わたしには、何ができるのでしょうか。」




 は思わず、口を開く。




「生きる、ことです。」

「・・・」

「それが何よりも、ギルベルト様も含め、皆の願いなのですから。」




 最後の瞬間まで、生を諦めず、生き抜くことが、アルトシュタインの願いであり、そしてまた、カール・ヴィルヘルム公子の願いでもあった。否、もちろんそれはギルベルトの願いでもある。




「生きていなければ、」





 もう二度と会うことができなくなるのだから、とアルトシュタインは声を嗄らせる。

 だが、が生きていても、ギルベルトが死んだら一緒ではないのだろうか、どちらにしても会うことができなくなる。


 ざわめく心は、とどまるところを知らなかった。

  Ich hoffe, dass er noch lebt.


抱えようもない愛情とともに