フォンデンブロー公国の首都・ヴァッヘンからそれほど遠くないノイエルーフェンは風光明媚で有名な土地で、川も近く、もともと歴代のフォンデンブロー公国の公太子の住まいだった。
オーストリア継承戦争で亡くなった、の又従兄弟・カール・ヴィルヘルム公子もまた、戦死するまではノイエルーフェンにあるアルトルーフェン宮殿に長らく住んでいた。公太子の儀礼称号“ノイエルーフェン侯爵”も、この地からとられたものだ。
アルトルーフェン宮殿はかつてフォンデンブロー公爵の避暑地だったこともあり、いびつな増改築を繰り返した複雑な構成の宮殿で、入り組んでいる。
カール・ヴィルヘルム公子が戦死し、老齢であった先のフォンデンブロー公爵が死んでがフォンデンブロー公となった後、公太子となる息子のユリウスが生まれたが、まだ幼くが手元で息子を育てたため、アルトルーフェン宮殿は離宮として一年に何度か訪れ、滞在する場所となった。
「・・・落ち着く、」
かつてカール公子が使っていた部屋は中世風の装いながら大きな木の彫刻に彩られた窓から太陽光がふんだんに入る、日当たりの良い質素なしつらえだった。濃い色合いの美しい木目の柱を基調にした部屋には、質の良い木の机が置かれている。
彼の日記を見つけたのも、この机だった。
は幼い頃、よく近くにある深い緑色のカウチに座って彼とともによくお茶などを飲んでいた。
彼が死ぬまで、フォンデンブロー公国でのの思いではただ愛しいものだけだった。優しい老公爵。そして10も年の離れた又従兄弟。フォンデンブロー公女であった母は、父には絶対に見せない優しい表情で笑っていた。
母は自殺し、カール公子はオーストリア継承戦争で戦死した。老公爵もが結婚した2年後には亡くなった。だから、かつてここでともに過ごした人々はすでに誰もが彼岸の民だ。
カール公子が亡くなってから、はこの部屋に入ることができなかった。
だが、ギルベルトが戦争に去り、が子供を産んで常にフォンデンブロー公国にいるようになってから、にとって一番落ち着くのはアルトルーフェン宮殿の、かつてのカール公子の部屋になっていた。
時間があれば、昔彼とともにしたように、お茶を入れて、お菓子を持って、ただそこでお茶を飲んで日々を過ごすのだ。彼は特別よく話すようなタイプではなかった。だからただお茶を飲んで黙ってその沈黙を楽しむのが、かつてのルールだった。
カール公子が亡くなったと聞いた時の絶望を、は忘れたことはない。
それでも、愛しかった遠い日を、心穏やかに思い出せるようになったのは、おそらく自分が大人になって、時が少しずつの傷を癒やしたからだろう。
「これこれ、口がケーキですごいことに、」
隣に座っている娘を見て、は思わず眉を寄せる。
ケーキを手づかみで食べていたせいか、娘の手はクリームだらけで、顔や頬にもべったりとついていた。
「本当に、困った子」
はハンカチで娘の白い頬のクリームや汚れをぬぐってやる。
「あ、ここにもなんかある、」
ユリウスは木で作られた机の表面をひっかいてみたり、棚を開いていじくってみたりしていたが、机の奥を叩いて言った。
はつい半年ほど前にカール公子の日記を見つけた。その机の引き出しが二重板になっていて、そこに隠されていたのだ。だから、ほかにも彼の残したものがこの部屋にはあるのではないかといそいそ探してみていたのだが、にはいまいちわからなかった。
その話を息子にすると、彼は宝探しのようでおもしろいと思ったらしく、かつて優秀だと言われた公太子と今優秀だと言われている皇太子の自分との知恵比べだとでも言うように熱心に探すようになっていたのだ。
「母様、これはがしても良い?」
「手荒なことはやめてくださいね。質の良い机なのですから。」
は娘の手を拭きながら、手荒なこともしそうな息子を諫める。
「わかってるよ。でもここ、板がずれる気がする。」
引き出しをすべて外して、ユリウスは奥をとんとんと叩いて音を確認しているようだった。には音の変化で何かはわからないが、どうやら息子はそこに空洞があると考えているらしい。
「板は外れたけど・・・暗くて見えないな、頭突っ込めないし・・・。」
高さが悪いのか、しゃがみ込んでも何があるのかよく見えないらしい。
「ユーリ!」
手を拭いてもらった娘は、ぴょんっとカウチから飛び降りて兄であるユリウスの元に歩み寄る。熱心に兄が何かをしているのを見て、それをおもしろそうだと思ったのだろう。
最近周りのことがよくわかるようになってきたアーデルハイトは何にでも興味を持つ。
「アーディ、見える?何かある?」
ユリウスは少し体を引き出しから離し、妹にのぞき込むように示す。
「ちょっと、ユリウス。アーディは子供なのだから、難しいんじゃ、」
「えーだって、アーディの背がぴったりだよ。」
確かに、まだ2歳のアーデルハイトの背は、引き出しを外したその奥を見るにはちょうど良い背だ。頭もすっぽりとその空洞に入るだろう。
兄に促されて、アーデルハイトはすぐに首を引き出しを取り外したその空洞に頭を突っ込み、手をわさわさと動かした。体まですべて入ってしまいそうな勢いに、の方ははらはらしていたが、案の定アーデルハイトは上の板に頭をぶつけたのか、突然泣き出した。
「アーディ!」
は慌てて娘の方に駆け寄るが、ユリウスの対応は早かった。頭に気をつけながらすぐに妹を引っ張り出す。
ただアーデルハイトの小さな手には、二つのものが握られていた。
はすぐに娘を抱きしめて背中を叩いたが、ユリウスはすぐにアーデルハイトの持っているものに気づいて赤みがかった紫色の瞳を瞬いた。
「鍵と、何これ・・・」
ひものついた鍵と、四角い木組みの箱だ。鍵は随分と変わった構成のもので、真ん中にいくつか穴が開いている。箱の方は木でできている何の変哲もない箱だが、箱の板がばらばらに動くことに気づいて、ユリウスは眉を寄せた。
「これ、パズルだ。中に何か入ってるんじゃないかな。」
ころころと振ってみるが音は鳴っていない。だが、鍵とともに隠すぐらいだ。軽いものが入っているのかもしれない。
「母様、これについて何か聞いていないの?」
ユリウスはに目を向ける。
「・・・何も。」
「日記は読んだんだよね?」
「でも書いていなかったわ。日記のほとんどは仕事の日誌のようだったし、ほかのことは抽象的でよくは、」
は首を横に振る。
は確かにかつてカール公子の婚約者となるはずだったが、彼は十も年上で、彼が死んだ時、は十を超したばかりだった。様々なことを教えてもらったのは事実だが、それは教養のようなものばかりだったと思う。
彼は公太子として生まれ、常にその地位と責任を理解していたから、彼がに求めた教養が、が統治者となってからも役に立ったことは間違いないが、死を前にした彼が直接に残してくれたものはなかった。
「でも、これは母様に残したものだと思うよ。だって、次にここを使うのは、母様しかいないんだから。」
ユリウスはじっとを見つめて、したり顔でそういった。
確かに、カール公子が死んだ時点で、次の公太子として予想されるのは誰でもなくだった。賢かったカール公子がそのことに気づいていなかったとは思えない。
「・・・でも、これはどこの鍵なのでしょう。」
は目尻を下げて、特別な形をしたその鍵を見つめる。
カール公子はいつもに優しかった。無表情な人ではあったが、冷たい人ではなく、情には厚かった。きれいな人で、幼いにとってはあこがれにも似た感情でいつも彼を見ていた。
その彼が、に残したのは何だろうか。に直接話すことができなかったそれは、を傷つけるものだと、知っていたからではないのだろうか。
「・・・」
さびた銀色の鍵が息子の手の中できらりと光っているのを見ながら、は小さく息を吐いた。
Ich hoffe, dass er noch lebt.
似た色を探している