徐々にプロイセンは大陸で追い詰められ、初夏の戦線は芳しくないとの報告が、の耳にも入った。




「・・・」




 ギルベルトから来る手紙も滞りがちで、1ヶ月に一度は来ていたというのに、徐々に2ヶ月に一回、時には手紙がほとんど来ず、近況がわからないことすらもあった。

 6月にはフリードリヒの弟で王太子でもあったアウグスト王子も亡くなった。フリードリヒの母であるゾフィー王太后もすでに昨年亡くなっており、フリードリヒは相次いで家族を失うことになった。

 8月になるとベルリンにロシア軍が迫っているとの噂まで飛び交い、ベルリンにいたフォンデンブロー公国の貴族や将校はほぼ全員親族まで連れて帰国し、中にはプロイセン国王フリードリヒの親族まで滞在することとなり、も悲観的にならざる得なかった。

 ベルリンは、危険なのだ。

 プロイセン王妃であるエリーザベトの女官でもあったマリアンヌがアルトルーフェン宮殿を訪れた時、はあまりの出来事に驚きを隠せなかった。




「お久しぶりでございます。」





 マリアンヌは鮮やかな黒髪の豊満な美女で、すでに30を優に過ぎたがその美貌は相変わらず健在だった。緩く裾を引いてに礼をする姿は優雅そのものだ。しかしその表情は全くといって良いほど晴れなかった。




「本当に、よくおいでになられました、」





 は席を勧めながら、大きく頷いた。




「それにしても、ユリウス公太子殿下も大きくおなりですね。」




 マリアンヌはの隣に座っているユリウスを見て、目を細める。

 が初めてプロイセンを訪れ、ギルベルトと結婚した頃から、彼女はすでに王妃に仕えていた。の母はが10歳になってすぐ自殺しており、ユリウス出産の際は不安に震えていたが、王妃の格別の計らいで、何人も子供を産んでいた彼女がに出産するまで付き添ってくれたのだ。

 何もわからなかったにとっては心強い先輩であり、ギルベルトとも旧知の仲である故か、はっきりとがいえないことも言う彼女に何度も助けられた。




「フォンデンブローまでの道ほどは、大丈夫でしたか?」



 戦争中と言うこともあり最近は夜盗なども多く、宿場町も非常に危ないと聞いている。貴族の彼女が旅をするには危険もつきまとっていたはずだ。とはいえ、ベルリンにはロシア軍が迫っており、もっと危険なのだが。




「大丈夫ですわ。フォンデンブローに入ってからは様のお計らいで、つつがなく旅ができました。」




 マリアンヌは小さく息を吐いたが、その目元には疲れと悲しみが浮かんでいた。

 彼女の実家は元々フランスの伯爵家だ。しかしながらプロイセン王国の軍人に恋をし、そのまま無理矢理結婚までこぎ着けたという。宗教、そして立場の違いもあったが、仲の良い夫婦で、その才知を買われて王妃の女官にまでなった。

 しかし、彼女はその事情故にベルリンが危なくなってもフランスに帰ることができず、またプロイセンにそのままとどまり続けることもできなかったのだ。王妃からマリアンヌを保護してやってほしいとの連絡が来た時、は即座に快諾した。

 彼女とともに、4人いる彼女の子供たちもフォンデンブローへとやってきている。宮殿に部屋を与えているが、長旅の疲れは当然のことだ。そしてもう一つ、は彼女の懸念を知っていた。




「・・・ご夫君は?」




 は躊躇いながらも尋ねる。その途端、彼女の表情が凍り付き、笑みの形を作ろうとしたが、すぐに崩れた。




「先日、知らせが、」




 彼女はそれ以降の言葉を、紡ぐことができぬままに俯く。それが彼女の受け取った報せが訃報であったことを物語っていた。

 も彼女の夫のことはよく知っている。ギルベルトの部下の一人であり、気が強く奔放なマリアンヌは、それでも夫にべた惚れで、仲むつまじかった。彼女の夫は穏やかにほほえむ、おおよそ軍人とは思えないほど穏やかな人だった。




「そう、ですか、」




 部下の彼が無事でないということは、の夫であるギルベルトも危険な目に遭っているはずだ。もしくはもう死んでいる可能性だってある。

 が表情を曇らせると、マリアンヌは慌てて取り繕うように目元をこすった。




「バイルシュミット将軍は大丈夫ですわ。あの方はどうせ死にはしませんもの。」




 不安そうに目尻を下げている息子が目に入ったのだろう。慰めるようにそう言って、マリアンヌは無理をして笑ってみせる。

 夫が亡くなったばかりだというのにこちらを気遣うマリアンヌの強さには目を伏せた。

 だがユリウスはその聡明な紫色の瞳を少し納得したように瞬いて、じっとマリアンヌの顔を眺めてから、口を開いた。




「ねぇ、マリアンヌは、父様と昔からの知り合いだよね。」

「えぇ、そうですわ。フランスから嫁ぐ前から、よくお見かけいたしました。」




 マリアンヌは何のことはなく、さらりと答える。

 変な意味ではなく、マリアンヌは幼い頃から名門の伯爵家の娘としてフランスの宮廷を行き来しており、ギルベルトを見たことがあった。プロイセンに来てからはなおのこと、近くで見てきた。




「・・・マリアンヌのお父様は、Le conseil du roiル・コンセーユ・ドゥ・ロワにいたんだよね?」

「そうですが。」





 マリアンヌは僅かに首を傾げて、ユリウスの質問をいぶかしむ。彼の質問の意図がわからなかったからだ。




「父様ってさぁ、何?」




 ユリウスははっきりとそう問いかけた。その言葉にマリアンヌは息をのむ。




「何って」




 は意味がわからず何かを口にしようとしたが、あまりにユリウスの顔は真剣で、口を噤む。

 にとってギルベルトは自分の夫であり、愛する人だ。ユリウスにとっては父親である。公式にはプロイセン王国の将軍で、フリードリヒ2世の忠実な臣下でバイルシュミット公爵の地位を持つ、名門の出身者。

 だが、その答えが答えでないことを、ユリウスはうっすらと感じていた。




「あの人、年とらないでしょ。」




 ユリウスは幼い頃から父親を見てきた。

 どう見ても最初は母の方が若く、父の方が随分と年上だった。ほかの人間から聞いても、十はギルベルトの方が上だと言うことだった。だが、今はどうだろう。どう見てもとギルベルトの年齢は同じぐらいにしか見えない。




「バイルシュミット家は確かに昔からの名家だけど、遠さ間のそれはとってつけたみたいだ。」




 自分の父親の血筋を、ユリウスは調べたことがある。それはあまりにも不確かで、とってつけたようなものばかりで、彼が幼年士官学校に入ったこともなければ、軍人としての経歴も、フリードリヒ2世のそばにいたことを考えたとしても、“幼い頃”の経歴がない。




「カークランド卿も変だよね。別々の国だけど、何人かいるでしょう?」





 イギリスの大使であり、がイギリスと同盟していることもあってよく通商の話にやってくるアーサー・カークランド卿もまた、同じように顔が全く変わっていない。そして経歴が同じようにとってつけたようでおかしいのだ。




「悪魔?モンスター?少なくとも、僕らと一緒には年をとらないんだから、僕らとはなんか違うよね」




 ユリウスはあっさりと言い切った。それは、も僅かながら感じたことのある疑問で、それをまったく探らず、放置し続けたとは違い、ユリウスは推測を積み重ねながらそう結論づけたのだ。




 ――――――――――――――――子供まで作ったって言うのに、君は何も知らないんだと思ってね




 数年前にやってきたロシアの大使は、確かにそう言って見せた。その時、はその問いを完全に突っぱねた。彼は自分の夫で大切な人だ。それ以上でもそれ以下でもないと。

 だがそれは、正しいのだろうか。




「ま、別に僕は父様が悪魔だろうが、モンスターだろうが何でも良いんだけどね、」




 ユリウスは自分の手を組んで肩をすくめてみせる。




「だって、僕、父様にそっくりだし。」






 仮に父親が何であれ、自分が父親に似ており、彼の子供であることに変わりはない。





「ただ、僕は僕であるために、何だか知りたいんだ。」





 はただ、ギルベルトを愛している。とはいえ、二人は分かたれた別個の個人だ。ただ愛し、愛されるだけの関係でいられるかもしれないし、極端な話、逃げることだってできる。しかし、ユリウスはギルベルトと血の繋がりがある。これは常にユリウスにつきまとい、逃げることのできないものだ。




「・・・私の口からは到底、申し上げることはできません。お許しください。」




 マリアンヌはじっと考え込んでいたが、深々と頭を下げる。だが、その言葉尻からは何らかの秘密があり、ユリウスの言うことが一定本当だと認めたという意味で間違いないだろう。




「・・・ギルベルトが、何か?」




 は自分の夫、愛しい人としか考えていなかった彼の一般的な“見解”を考えながら、ただ宙を眺めた。




  Ich hoffe, dass er noch lebt.


秘密と狼狽