アルトシュタイン―古い石という名前を与えたのは、遠い日のフォンデンブローの統治者だった。その頃、フォンデンブローは公国ではなく、辺境伯領と呼ばれていた。まだ神聖ローマ帝国の初期の話だ。
それから早1000年の月日が過ぎ、変わりゆき、崩壊していく帝国。いつしか随分と帝国から独立したフォンデンブローは、かつてのフォンデンブローではなくなっていた。
「おまえが、フォンデンブローか。」
驚くでも何でもなく、本当に軽くアルトシュタインが国だという事実を受け入れたのは、無表情な公太子だった。
カール・ヴィルヘルム公子は随分と不遜な公子だった。フォンデンブロー公爵の孫であった彼は、父が早くに亡くなったため公太子に幼い頃から取り立てられていた。そのためかなり大人びた子供で、物事を酷くよく見ていた。
子供らしくない、あまり笑わない公子だった。だが、賢く、誰もが期待していた。長じる頃には軍事、政治などすべての面で有能で、議会も公子に頼りきりだった。派手好きだというわけではなかったが、華やかな公子だった。
それに比べて、は地味だった。外見も美しくはなく、別段と知性があるわけでもない。平凡な能力の少女で、フォンデンブロー公家の一員とはいえ俯きがちで、何もなかった。
「なんで、彼女を選んだんですかな。」
を妃として選んだカール公子に、アルトシュタインは問うたことがある。
カール公子とは又従兄弟の間柄だが、年齢は十以上離れている。既に20歳を超していた彼には、が大人になるのを待たずともいくらでも相手はいた。彼は確かに婚約者候補の一人のアプブラウゼン侯爵令嬢ヒルダを嫌ってはいたが、婚約者候補は彼女一人ではなかった。
ましてや十も下なのだ。もっと年の近い女性を選んでも良かろう。なのに、彼はを選んだ。それがずっとアルトシュタインにとっては疑問だった。
控えめと言えば聞こえは良いが、彼女は気弱だった。俯きがちで他人に命令することは出来ない。そういう人間が公妃になるなど不可能ではないか、そして、公太子の地位を何よりも重んじるカールが彼女を妃にと選んだことが疑問だった。
「はそこまで悪くない選択だと思うぞ。」
しばし考えた後カール公子は顎に手を当ててそう答えた。
「あれは馬鹿じゃない。なまじ自分を賢いと思っている方が手に負えない。あれはあれで、努力はする。」
「努力ですか。」
「そうだ。」
確かには地味だったし、決して何か秀でた能力があるわけではなかったが、努力をしているようには見えた。だが、自信がなさげのため、誰も彼女の能力が実際にどの程度なのか、知らない。そういえばピアノはかなりの腕だとカールが前に言っていたなと思いながらも、アルトシュタインは彼女のピアノを聞いたことが無かった。
すべてにおいてそういうことだ。
自信がない。だから自分の悪いところも良い所もすべて隠してしまう。それは自分の才能を虐げる行為でもあった。自信のなさは彼女から、すべてを奪う。評価される機会すらも。しかしそれが彼女で、一生そうして終わるのだろう。だからどうして彼がを選んだのか、どうしても納得出来なかった。
それはカール公子にも察せられていたのだろう。彼は呆れたような顔をしてから、顔を上げた。
「それに、上だけで引っ張っていける時代も、もう終わるだろう。」
「上?」
「国の管理するべき場所が増え過ぎた。もう君主ひとりでは管理していくことは出来ない。」
絶対王政。そんな言葉が呟かれるようになるのはもっと後の話だが、この時代絶対的な力を振るっていたのは国王だった。イギリスは例外に議会が強いが、カール公子が有能なことで、フォンデンブローもカール公子の一声でものが出来るようになりつつあった。
それも時代だろうと簡単にアルトシュタインは考えていたが、カール公子は剣呑に目を細めた。
「おまえ、革命を見たことがあるか。」
「革命とは、イギリスのですか?」
「そうだ。」
ピューリタン革命、そして名誉革命。この二つの革命によってイギリスの議会は自分たちの国王を自分たちで選ぶほどの強い力をつけた。他の国々では、革命などはない。
「これからは多分、合議制がよいと言う時代になっていくだろう。一人ですべてを出来る時代は、中央集権が進み、やることが出来るにつれて君主の独裁は終わる。そうしなければ国王がとるべき責任は大きくなりすぎる。合議制は責任を分散させ、君主の責任を減らす。それも保身だ。」
中央集権と言われ、中央となる首都にすべての機能が集まる体制が確立しつつある。
それは軍事的、経済的に必要なことだ。だが、その反面すべてを統治者が決定することは不可能となってきた。沢山の決定事項がのしかかる。それをこなせるだけの天才であれば良いが、統治者のすべてが賢明であるわけではない。
中央集権は、その分だけ責任も重くなる。いざ失敗した時の統治者の責任は大きい。
だから、合議制が必要なのだ。それは公爵家が生き残っていくための保身でもある。担う部分が少なくなれば、自由に出来ていた財政なども少なくなる。だがその反面、失敗した時は他人のせいに出来る。
「生憎、私は賢すぎる。…即位すれば、次の時代に苦労することになるだろう。」
カール公子は、優秀すぎるほどに優秀だった。
議会は自立性を失い、カール公子に頼りきりだ。公子は確かに賢かったから良いが、次の公爵が賢くなければ、次の時代は地位を失う可能性もあった。
「男は先に死ぬものだ。10も年若ければ、まぁこちらが先に死ぬだろう。が摂政にでもなれば議会もそれなりに力を持てる。」
はカール公子より10以上若かった。
男の平均寿命は短いもので、の取り柄はその健康的すぎるほどに健康な体だとも言える。何か無い限りは、カール公子の方が先に死ぬ。その後、子供の摂政につくのはだろう。ただ気弱ながすべてを決定するとは思えない。
「…それは、良いのですか?」
「だから、あいつは気弱だが馬鹿じゃないと言うんだ。全くすべてを議会に任すほど馬鹿ではない。」
気弱だから決定などは様々な人間の話を聞くだろうが、馬鹿ではないからすべてを任せて放り出すまねはしない。そういう妃が、必要だったのだ。
気はすべてを牛耳るほど強くてはいけない、他人の意見の聞けない人間でもいけない、馬鹿でもいけない。
「ぴったりだろう。に。」
冷えた青色の瞳は、冷静に未来を見据えていた。
「確かに…そうですが、」
アルトシュタインは言葉を失い、アルトルーフェン宮殿から窓の外を見つめた。
そこにいるのは母親のマリア・アマーリアと共に花摘みをしているだった。柔らかそうな亜麻色の髪、平凡で小綺麗な顔立ちの少女は俯きがちだが、それでも控えめに笑っている。
「それに、うるさい女は嫌いだ。あのぐらい静かで良い。」
カール公子の言いぐさに、アルトシュタインは笑ってしまった。
「静かって、そりゃアプブラウゼン侯爵令嬢のヒルダ様に比べれば、誰でも静かですよ。」
「気のきついのも好かん。偉そうなのもばからしい。」
結局、好みの問題もあるのだろう。
十も年の離れた少女にカール公子が恋愛感情を抱いていたとは、今でも思いがたい。だからおそらく、自分の好みと必要性から妥協であったのだろう。また、父親から疎まれており、不義の子であったは非常に地盤が不安定だった。
幼い頃からを見てきた彼は、を随分と不憫に思っていたし、また唯一の近しい親族であったため、気にもかけていた。自然と言えば、自然な判断だったのかも知れない。
彼には祖父であるフォンデンブロー公がいたが父母は早くなくなっており、頼る場所は祖父しかいなかった。
カールは、アルトシュタインにとって最期の美しい思い出で、心から信じた人物だった。
彼が死んだ日を、今でも覚えている。
血だらけの体。泣きじゃくる、呆然とする老公爵。若い希望が奪われた事実に、アルトシュタインはただ悲しむ彼女らを傍観することしか出来なかった。
どこかで、新たな時代を感じていた。新たな国の出現を感じていた。
長く生きすぎた自分が死にゆくのを感じていたというのに、彼は自分のために死んだ。国のため、そして大切な人たちを守るために死んだ。自分という、老い先短い終わりゆくもののために死んだのだ。
そう思えば、やりきれなかった。若く才能豊かな彼の死は、終わりの見えたアルトシュタインの心を突き刺した。
老公爵にはもう未来はなく、そしてアルトシュタイン自身にも未来はない。
そのアルトシュタインの考えを覆したのは、自分が見向きもしなかった、地味で、美しくもない少女だった。
彼女はなんの力もなかった。
でも、若かった。若くて優しく、誰に対しても笑いかけた。
『何かあったら、を頼む。』
最期にそう言った、カール・ヴィルヘルム公子の面影は既にどこにもなかったけれど、それでもに仕え続けるほどに、アルトシュタインはこの若く幼い少女を愛おしいと思った。
もう一度夢を見たいと思うほどに、共にありたいと思うほどに、願ったのだった。
Ich hoffe, dass er noch lebt.
遠い日の貴方